国鉄残酷物語(昭和最大級のリストラ)

 すでに半世紀ほど前の出来事になるのですね。国鉄が分割され民営化になって。筆者も実は国鉄に在籍していて,当時「余剰人員」にされ,国鉄を去る運命に立たされたわけです。そんな昭和の終わりの出来事を個人的に記憶を元に記していきたいと思います。何分かすかな記憶を辿ったものもありますので事実と齟齬する部分があるかもしれません。

(以下ウキペディアより引用しました)

国鉄分割民営化(こくてつぶんかつみんえいか)は、第3次中曽根内閣が実施した行政改革である。日本国有鉄道(国鉄)をJRとして、6つの地域別の「旅客鉄道会社」と1つの「貨物鉄道会社」などに分割し、民営化するもので、これらの会社は1987年昭和62年)4月1日に発足した。

余剰人員整理

国策で戦争引揚者を大量に雇用した結果、高い人件費率が問題になり、国鉄再建監理委員会は、新会社は18万3千人体制にしなければならないとした。1986年4月時点で、国鉄職員は約27万7千人であり、9万4千人が「余剰人員」と見込まれた。

このうち、約7万人が希望退職に応じた。希望退職者には、公務員や特殊法人、民間企業、他鉄道会社などへの再就職が斡旋され再就職した。その結果、民営化時には約20万人が採用された。新会社を不採用となり、国鉄清算事業団に送られたのは7千人あまりであった。不採用となったのは、余剰が深刻な北海道・九州で地元採用を要求した者(地元採用要求や、白紙回答が国労の方針でもあった)、国鉄経営陣によって「昭和五十八年度から六十一年度までの間に停職処分二回以上、または停職六ヶ月以上の処分を一回でも受けた者、それ以外に採用基準に適合しないという理由がある者」とされた者などであった。

公務員のキャリアに相当する幹部採用者は約1600人いたが、JR各社に引き継がれたのは約1100人であった。


人材活用センターのとある1日

名前こそ「人材活用センター」ですが活用どころか作業はほとんどなく,一日中詰所で待機。たまにある仕事といえば,車両の灰皿磨き,車両基地の周りの草むしりなど,ほとんどが雑用ばかりでした。

最初はローティーションが組まれ,数日単位で交代が組まれていましたが,そのうち選別が始まり特定の職員が入れられるようになりました。自分も前に事故を起こしてしまったからでしょうか,その後選ばれることになりました。(写真中央で乾杯をしているのが筆者)

自分は絵を描くのが好きだったので,路線から見えるところに立て看板を描く仕事を任されたり,構内の注意看板など書いたりしていました。本業の車両入れ替え作業よりこちらの方が自分には向いているのかと考えたこともありました。また,ある時はさよなら列車のヘッドマークを描いてくれとの依頼もあり,2つほど完成させました。

数ヶ月がたったあたりから,雑用仕事の内容が少し変わってきました。