第二章 氷川丸

昭和から平成になりかけた頃、生前、私の父が当時のことを思い出して書き上げた手記を元にまとめた戦争記録です。乗船していた貨物船が敵の魚雷で沈没し、命からがら助かった話や現在横浜の山下公園に停泊している氷川丸に乗船していた頃の話などを含め、戦争の悲惨さが改めて実感させられました。


18 帰郷

昭和一九年二月二八日、懐かしい祖国日本へ無事帰国した。
その後、海軍将校の訓示で日本郵船横浜支店より日用品の配給を受け、収容所で一泊し、翌日その横浜支店に出頭し苦難の帰国を報告。社員の皆さんも無事を喜んでくれ、手当も支給された。次の出頭日を三月一二日と指定され、その間の十日間特別休暇をもらった。
今まで興津丸で生死を共にしてきた先輩達と再会を一二日と肩をたたき合い、握手をして別れた。
 私が日本に帰ってきたことも知らぬ北千住の姉の家へと省電桜木町駅へと向かった。あと一時間あまりで姉に会えると思うと嬉しさのあまりつい早足になってしまう。姉の家に着いたのは寒さも増してきた夕方、灯火管制下で大都会も暗い道に変わる頃。玄関の隙間から僅かな電灯のあかりが見える。夢中で戸をガラガラと開け、閉めることも忘れ「姉さん、帰ったよ!」と一言。
姉もぴっくり、「延ちゃんか?よく生きてたねぇ」とまるで幽霊でもみたかの驚きの顔。しかし、すぐにやさしい笑顔になってお互いの無事を喜び合った。
食料不足の折、姉はあちこち店を回って少ない材料で御馳走を作ってくれた。久しぶりに食べる祖国での暖かい手料理。たいへん美味しくいただき、その夜は更けていくのも忘れ語り合った。興津丸沈没寸前の一月二十六日午前三時頃(日本時間午前二時半)サヨナラ・・・と言って海に飛込んだ頃、姉は「延成がずぶ濡れになって海から上がってきた夢を見たよ」と話していた。        
 翌日、私が太平洋上で漂流中息も絶えそうな時、生きる、原動力になったであろう父に会いたく砂川の故郷へ帰ることにした。姉は丸裸の私に姉の主人の洋服、オーバーコート、そして姉に買ってもらった新しい靴を履いて上野発青森行きの夜行列車に乗った。
座席は満席だったが立っている人はいなかった。北へ向かう人々は誰も無口で、私のような思いを持った人もいるのだろうか、暖房も効いていない列車は静かに常磐線を北上していった。
 どのくらい時間がたっただろうか、ふと目をさまし、窓を見るとまだ暗い。やがて列車はスピードを緩め、駅に止まった。
「せんだ〜い、せんだ〜い」駅員の声が遠くから聞こえ、また遠くなっていく。
仙台からだんだんと青森に近付くと車窓の景色は白一色。故郷砂川も雪に埋もれていることだろう。父は元気だろうか。
 青森で青函連絡船に乗換え、函館に着いたのが昼の十二時。すぐに稚内行きの列車に乗る。ああ、もう北海道、あと少しで砂川だ。いろいろな事が頭をよぎっていく。三か月前は南洋の孤島で望郷の念に浸っていたものだ。窓から見える北海道。懐かしい北海道。生れ育った北海道。雪煙を上げて走る列車、過ぎていく樹木、踏切の黒い標識もみんな懐かしい北海道。今、私は生きて再びこの地を見れたことの嬉しさと安堵の気持ちでいっばいだった。
砂川には深夜○時一〇分頃到着の予定だがおちおち眠ってもいられない。
 やがて列車は夢にまで見た砂川駅に到着した。さすがに夜行列車から降りる人も二、三人くらいしかいなかった。以前通いなれた道を自分の足音だけを聞きながら歩く。上砂川へ通じる鉄道のレールを左側に見ながらやがて我が家に通じる曲がり角にたどりついた。生れ育った、そして父のいる家。その雪を被った屋根が真夜中の雪あかりでぼんやりと浮かび上がってきた。玄関の前に立止まることもなく引き戸を開けようとするが雪と氷でスムーズに開かない。何度か力を入れてどうにか中に入ることができた。障子戸を開けると薄暗い電灯の下、埋火をしたストーブが見えた。その向こうにあまり上等とはいえない布団にくるまっている父がムックリと起き上がってジーッと私の方を見ている。
「お父っーあん、帰ってきたよ」と言うと、父は身体を起こし、ただ一言
「延、お前、化け物でないか?」と言った。
今すぐに父に飛付いて泣きたい気持ちをおさえ、靴を脱ぎゆっくりと家の中に入った。少しづつ暖かさが戻ってきたがストーブのそばにオーバーを着たまま座り、横須賀の海軍将校に絶対口外してはならぬと言われたことも忘れ、正直にありのままに太平洋上で起こったことを話し始めた。
私の話声を聞いてか奥の部屋で休んでいた兄、義姉も「延、来たか」と起きて私の話を聞いてくれた。
父はとても厳しい人だが国のためによく尽くしたと喜んでいたようだ。その父の目に光るものがあった。父も私が真夜中海に飛込んだ頃、私が海で死にかけている夢を見たらしい。
そして義姉に「延成は戦死したのだ。横須賀へ遺骨を取りに行く。着物あるか?着ていくものを用意せよ」と言っていたそうだ。
 故郷で過ごした一週間もあっという間に過ぎ、再び郵船会社に出頭する日が近付いた。兄がちょうど街に用事があるからといって馬そりを仕立てたので、それで駅まで送って貰うことにした。父や家族にさようならを言い、駅へと向かった。
馬が曲がり角にさしかかった時、振返って我が家をもう一度眺めてみた。来た時は胸をときめかせて見た我が家の屋根を今は見送る立場に変わった。そしてこの曲り角から再びあの屋根を見ることができるのだろうか?それともこれが見納めか?今度見るのは白木の箱か?たぶん・・・いや、きっと生きては帰れないであろう。馬は脚をゆるめもせず、ただひたすらにそりを引いている。私はその屋根を見えなくなるまで見つめていた。

19 出頭

 会社に出頭する前日、北千住の姉の家に着いた。懐かしい砂川での出来事などを語り合い一泊させてもらった。
明けていよいよ会社に出るように言われた十二日が来た。出勤すれば直ちに乗船命令があるかも知れない。兵隊が少ない。船員も戦争で次々に戦死していく今日この頃だ。人が足りないのは目に見えてわかる。私も国のため少しでも役に立ちたい。その覚悟はできていたので、すぐに乗船命令があってもいいように身の回りを整えて指定された時間に間に合うよう姉にさよならを告げ、省線電車に飛び乗った。
 横浜支店へ出勤し、出社の挨拶を係りの社員に告げ、指示を待った。出勤時間になったが、十日前この会社の同じ場所で出勤時間を告げられた興津丸遭難の乗組員だった人は誰も来てないようだった。私ひとりポツンと待っているとしばらくして会社の係長から「岡崎ちょっと」と呼ばれ、ああ、もう乗船命令かと思った。
「はいっ」と返事をして係長の机のそばへ行き、一礼をすると「興津丸乗組員で今日言われた通り出てきたのはお前だけだ」とお誉めの言葉をいただいた。そして「よーし、岡崎お前は良船に乗せてやる。それまで会社の配乗課の手伝いをしろ。時間は朝八時半から九時までだ。そして明日からで良い。今日は帰ってよろしい。」と言われ「かしこまりました。」と一礼をして課長の前を下がり、山下町にある郵船の宿舎へ身の回りの整理に行った。午後再び省電に乗り北千住の姉の所へ行き、今日会社で言われた事を詳しく話した。姉は「それは大変よかったね。言われた通りのことをしていればきっと良い事があるものよ。」と喜んでくれた。
 翌日、皆が出勤する前に来て机の上などを拭くなど掃除をした。職員が出勤して、いろいろの課へ書類等の運搬を指示され、一日中雑用の仕事が始まった。仕事が終わっても会社の寮には戻らず、姉の所に帰る。結局姉の家から通うことにした。通うようになってから二、三日ほどたった頃、どこからか買ってきたか奇麗な花を一束私に差し出し「これ、会社の机にでも飾っておいてあげなさい。」と言って渡してくれた。私はその花を持っていつものように朝速く出勤し、掃除をしたあと課長の机、一番世話になる人の机の上へとそっと空きビンになっていた花瓶に差しておいた。姉は二、三日おきに花を持っていきなさいと新しい花をくれた。そのたびに机の花を取替えていた。
そういう日が何日か続いた。
 ある日、課長の印刷物を届け職員の机の後ろを通った時「この頃花が新しくなっているが、いったい誰が持ってきてくれているんだろう」と話しているのが聞こえた。私は黙っていた。聞かれてもいないのに「それは私です」とは言えない。しかし、その話し声を聞いてうきうきとした気持ちになったのは事実である。
 仕事もそろそろ慣れてきた丁度一ケ月になる四月の半ば頃であった。朝、配乗課の主任に呼ばれた。
「岡崎、良い船に乗せてやるぞ。病院船氷川丸だ。これが乗船命令だ。身の回りを整理して午後横須賀港にいる氷川丸に乗船し、この書類を山田特待繰機長に渡しなさい。」
私は一瞬、心が引き締まる思いがして思わず声も高らかに「はいっ」と返事をした。頭の中ではいろいろな事で、はちきれそうになっていた。
 まず第一に姉に知らせねばと近くの郵便局に走り、電話を申込む。当時姉の住んでいる所には電話はなく、大家の小久保さんに電話を申込んだ。電話がつながるまでの数分間が随分長く感じた記憶がある。そわそわとしているうちに局の人に「つながりました」と告げられた。姉を頼みますと小久保のオバさんに頼み再び待つ、待つ事しばし「もしもし、延ちゃん」と姉の声。
姉さん、船に乗れという命令が出たよ。病院船氷川丸だよ。午後横須賀へ行かなければならないから姉さんの家へは行けない。寮へ行って荷物を持ってから行くから。」
姉もたいそう驚いた様子だった。
「私も午前中には横浜へ行くことが出来ると思うけど、延ちゃんはどこに居るの?」
「山下町の郵船の独身寮に居るよ」
「じゃあ私、そこに行くから」といって電話を切り、再び会社に寄って、短い間であったが 配乗課の皆さんに挨拶して山下公園のはずれにある独身寮へ向かった。(この独身寮のあった所は現在横浜ベイブリッジに通じる道路になっていて橋げたが立ち並んでいる。〉
午前十一時をまわった頃、この独身寮の前に一台の人力車が止まった。その中からニコニコとした姉が降りてきて「船に乗るんだって?身体に気をつけてね」と私に向かって笑顔で言ってくれるのだが目には光るものがあった。
「うん、病院船だから・・・。」運送鑑興津丸で遭難したことを姉は思い出しているのだろう。私は「大丈夫だよ」と言い足した。
その後、荷物を持って姉といっしょに桜木町駅に向かう途中、伊勢崎町のティールームで何かソーダ水のようなものを飲みながらいろいろと別れの話をしたものだ。姉には一才位の信子という子供がいるが、向かいの友人に預けてきたとか話しは尽きない。そして姉が持っていた浅草の観音様のお守りをもらった。
「身体に気をつけてね。」と何ども繰返し私の願をニコニコと見つめていた。 私はただ「うん、うん、とうなづいているだけ。「姉さんも元気でね。」という言葉がせいいっばい。時間はたちまち過ぎていく。 

               
 桜木町駅で電車に乗り、姉はそのまま北千住へ、私は次の横浜駅で横須賀線に乗換えなくてはならないので横浜駅でこのまま姉と居たい気持ちを振り切り、さよならを言った。横須賀行きの電車に一人飛乗り、いろいろの思いに窓の景色もわからずやがて横須賀駅に着いた。駅を降りてすぐ左手に海軍の衛兵が立っている通船桟橋が見える。その衛兵に乗船命令書を差し出し氷川丸に行きたいと言うと、あと一時間くらい待つと氷川丸へ行く内火挺が出るというので近くにある休憩所で待つことにした。
やがて「氷川丸へ行く者はいないか、内火挺が出るぞ。」と言う兵の声がするので私は無言で声のする所へ行き、内火挺に乗って沖に停泊している病院船に向かった。タラップを上がり乗船命令書を船門当番兵に見せ、最後部にある機関部員室にいる山田繰機長に乗船書類を提出した。そして先輩の乗組員に挨拶し、氷川丸の乗組員になった。その後いろいろと山田繰機長より機関部の説明を受け夕食を食べた後、自分のベットを決められ、最初の一夜を故郷のことや横浜まで見送りに来てくれた姉のことなどを思い出しながら、一人寂しさをこらえながらベットに入った。私はまだかけだしの船員だから明日から部屋の掃除やら雑用の仕事がどっさりと待っているのだろう。そうこうしているうちに深い眠りについた。

20 サイパン玉砕

現在は有数な観光スポットに

 
 一夜明ければ病院船氷川丸の乗組員。と同時に帝国海軍の軍属である。船内生活そのものが海軍と同じであった。唯一機関室の作業当直勤務だけは郵船会社の機関長の指揮下に入ると説明を受けた。
 乗組員となって二日目の事であった。氷川丸の横須賀軍港出発は四月二十日と内達された。もちろん乗組員以外は知らされてはいない。南方戦線の将兵に届けられる軍事郵便も積み込まれた。食料、衣料品の積込のウインチも稼働し、いよいよ出港時間が近付いているようだ。午前十時頃の出港予定だったと思う。最初の寄港地は未だ知らされていない。
朝八時頃から機関室の中はとても忙しい。空気圧縮機や発電機の回転音も出港を待つのにふさわしい。快調だ。私は各エンジンの轟音の中、油拭きで掃除をしていた。そのうち出航スタンバイのテレグラフが鳴り出した。いよいよ出航である。本船の主機関は氷川丸、日枝丸、平安丸の三姉妹船に採用されたデンマークB&W社製のものであった。このディーゼルはピストンの上下に燃料弁が付いていて高圧の空気で燃料油を噴射し、プロペラを回転させ、出航の準備が短時間でできる利点になっている。間も無くゴヘー(前進微速)、一等機関士は右エンジン、三等機関士は左エンジンの始動ハンドルをとる。高圧空気がシリンダーに入る「チューン」という高音と共に燃料に火がつき、主機関は動き出す。
もういかりを上げた頃であろう、主機関が始動されて五、六分もたった頃、機関士と当直員の他はボートデッキに集合の連絡があった。私も機関室を離れボートデッキに行き病院長、船長の点呼を受けた。氷川丸は今、防波堤を通過しようかとしている。海軍兵、乗組員全員集合したところで副長であろう、海軍の将校が号令をかけた。
「本病院船は只今よりサイパンに向かう。天皇陛下に対し奉り敬礼!」
その後病院長、船長の訓示があり、閲兵を終えると解散となった。
今にも雨が降り出しそうな海上に、風も強くなってきたようだ。本船は次第に速力を上げ(ただし国際法で速力は制限されている)一路サイパンに向かった。
 南下を続けて三日もするとそろそろ気温が上がり始めてきた。夜になってデッキで潮風にあたるととても気持ちがいい。空を見上げると昨晩は見えなかった南十字星が輝いているのが見える。いよいよ南洋の海に来たのかと思い知らされる。
明日の昼頃にはサイパンに入港である。デッキで涼をとり終えた私は船室に戻り故郷や東京のキクノ姉さんの事などを思い出しながらベットに入った。
米軍はマーラヤハを占領し、戦果は我々に有利ならずと暗いニュースが耳に達している。
 明けて四月二十四日サイパンに無事入港した。いかりを下ろし、入港作業が終了して間も無く便乗してきた海軍軍人(おそらく陸戦隊であろう)が本船に横付けしている「はしけ」に乗り移っている。どの人達を見ても私と同年齢のような十九、二十才位の兵士であった。私は当時まだ十八才、八月になって十九才を迎えようとしているが・・・・
兵士達を乗せた「はしけ」が氷川丸から離れる時がきた。
全員帽子を振って別れを惜しむ。私も背伸びをして手を振り続けた。この兵士達、いったい何人生きて戻ってこられたのだろうか?
 病院船氷川丸が南方各地を訪れた後、故国佐世保港に帰航した時はすでに「サイパンは玉砕」との報が船内にも入電していた。サイパンは米軍の手中にあり、もう行くことはできない。あの日、手を振って別れた兵士達、興津丸で行った時、神社のそばに住んでいたあのおばさんはどうだっただろうか。きっと激しい戦闘であったであろう。
そのおばさんにもらった赤や青の色のついた砂糖菓子を思い出した。私にとって今でも懐かしい思い出の島サイパン。その思い出が走馬燈のように頭を過ぎ去って行くが暗い気持ちは拭い切れなかった。

21 トラック島


 翌二十五日、サイパンを出港して日本の最前線基地であるトラック島へ向かった。
興津丸でも幾度となく寄港し上陸もしていて島の様子も私にははっきりと覚えている島である。
 本船は紺碧の穏やかな海を全速力で南下している。今思えばだれよりも平和を願っているような、そんな太平洋であった。サイパンからトラック島までは二昼夜かからない。
翌々日の二十七日にはトラック島に入港である。
 夜が明ければトラック島入港という夜のことであった。午後十時ころよりトラック島は只今米軍機による空襲中というウナ電が入ったと繰機長より通達があり、絶対にデッキには出ないようにと注意があった。同時に米軍機が氷川丸上空を低空で偵察しているのだろうか爆音が聞こえてきた。本船は病院船であるから大丈夫だろうという反面、もしや爆撃されはしまいかと胸はドキドキ。生きた心地はしないとはこの事であろう。氷川丸は速度を速めたり針路を変えたりすることは許されない。国際法に基づき航行速力もそのまま、針路もトラック島にとったままだ。両舷デッキ上とファンネルに取付けられている赤十字のマークのネオンがおそらく点灯していることだろう。その病院船であるという証しのネオンを点灯させている三基の発電機の快調な運転で我々は救われていた。
 米軍機の爆音は深夜になっても静まることはなかった。ふと時計を見ると午前二時頃、私はデッキに出ることは許されていないので船首にある倉庫右舷にあるポールド(丸窓)をソーッと開け、トラック島のある方向を見た。暗い中にもかすかに水平線が見える。
針路より僅か左方向の空は真っ赤である。燃えているのは夏島の向こうか?山が黒く見える。そういえば夏島と冬島の間に少し平地があった。その場所は私達は絶対に入ることはできなかったが軍の機密の要塞があったはずだ。米軍はそこを攻撃しているのだろう。
それでも氷川丸はトラック島へ針路をとっている。
 やがて時はたち、東の空が少し明るくなり始めてきた。今まで聞こえてきた米軍機の爆音がいつの間にか聞こえなくなった。そのうち聞いた事のある飛行機の音がしてきた。日本の飛行機の音だ。そういえば米軍機の爆音ばかり聞いていたのでその音は何ともいえない懐かしいような気持ちである。ベットに戻りしばらくウトウトとしていると食堂の方からかちゃかちゃと茶碗の音がするのが聞こえた。時計を見ると八時ちょっと前、急いで一杯のどんぶり飯と豆腐の味噌汁を胃袋に収めて作業服に着替え機械室に向かった。
 本船は間もなくトラック島に入港した。興津丸では何度となく寄港した島だが今回ばかりは空襲の爪痕がたえようもなくもの寂しい。デッキに出て回りを見渡してみるとかつての戦艦大和、武蔵や巡洋艦などの勇姿はどこにもない。小さなキャッチボートが動いているだけだ。島の沿岸にはマストをむき出しにした商船、横転した軍艦が見える。さっきの空襲で徹底的に被害にあったのであろう、無残な姿だ。当時の私は戦争に負けるなどとは夢にも思わなかった。勝ち負けよりも今この現実が理解できないでいたのではないかと思う。
 やがて入港すると同時に船側の扉が開けられ、はしけで運ばれてきた患者さんが担架に乗ってつぎつぎに乗船してきた。血みどろで目を開けたままの人、つむったままの人など様々な将兵で船内はいっばい。看護兵は右往左往の忙しさであったであろう。我が機関室ででも冷凍機で作る氷が底をついたくらいであるから。
 氷川丸は負傷兵の乗船を終えるとただちにトラック島を後にした。この島をデッキから見送るが上陸は出来なかった。このトラック島の夏島の上陸桟橋より右手西側に本船の姉妹船である平安丸がマストとファンネルを少し残したまま沈没しているのが目に入った。
現在はどうなっているのか戦場の跡を今一度見てみたいと思う。

22 パラオ島

 トラック島を出た氷川丸は針路を西側にとりパラオに向かった。重々しい航海が続くが海はそれとは対称的に穏やかで、南海を照らす太陽はさんさんと氷川丸をも照り続けている。エンジンの音も平和を願うがごとくただ黙々と回転していた。
私はそのまばゆいばかりの海、そして果てしない水平線を眺め、今戦争中であることも忘れて子供の頃からの夢であった七つの海でおもいっきり働き、いろいろな国の景色や人々と接していきたいなどと空想していた。
 そうこうしているうちにパラオ島に入港の日がきた。五月一日十時頃の入港である。昨日までは紺碧の海であったが、朝方雲が空いっぱいに広がり出し、海面も半ば鉛色に染まってきている。それでも船の進行によって大小の島々が島の影から見え隠れしている。
私は朝食をすませ機械室へ行くと入港終了のテレグラフが鳴り、続いて出港準備体制との事。昼休みに再びデッキに出てパラオの島々を眺めてみた。
この美しい南海の島、余り激しい戦闘はなかったと聞いてはいるが二、二日前より米軍の波状空爆が続いているそうである。
 ここでも傷ついた将兵達が担架で運ばれて乗船してきた。また従軍看護婦がこの島より二名位であったと記憶しているが乗船してきた。歩いて乗船して来たが軽傷なのか病気なのか私には知る由もない。横須賀港を出港してから女性を見るのはこれが初めてである。私の目に彼女達の制服、帽子の赤十字のマークかまばゆいばかりに鮮明に写った。女性のたくましさとでも言おうか神々しさとでも言おうか、女性もお国のために闘っているのだと思うと十八才の私は改めて心が引締まる思いがした。  
 このパラオ島も五、六時間の停泊を終えるといかりを上げなければならなかった。目的地はいったいどこなのだろうか?

23 バリクパパン

 夜になって同僚から次の寄港地はボルネオのバリクパパンだと聞いた。やはり四昼夜ほどかかる航海、氷川丸は相変わらずエンジンも快調に目的地へ向かっている。
 五月五日ボルネオ、バリクパパンに入港。桟橋に接岸した。桟橋とはいっても木の杭を打って作っただけのたいそう貧弱なものだった。この港で一泊するということで私達に半舷上陸が許可された。友人と上陸して見たその街を説明すると何もない街、原住民の住宅がポツンポツンとある程度で他に何も見るようなものはない。港から街に通じる道には原油があふれ、水のようににじみ出ている。この街で私共は木の葉に包んだ砂糖らしき物を一袋を十銭か二十銭の軍票で買って船に持ち込んだ。
 氷川丸は桟橋で燃料油(原油)をタンクに満杯に積み込んているがホースがボロボロで漏れた油があちらこちらに飛び散っている。この積込みも夕方には終了して明日の出航に備える。上陸した時に買ってきた砂糖はそれぞれのベットに置いていっしょに寝ることにした。
 一夜をボルネオの南バリックパパンで船体を休めた氷川丸は、翌日の午前十時頃この島を後にして次の寄港地セラム島アンボンヘと針路をとった。マカッサル海峡を通り、フロレス海バンダ海を航海すること四日間。南の島々を左右に見て本船は決められた針路、速度で航海を続ける。
波静かな海ではあるが、ここが戦場であるためかその波の音も重苦しく聞こえてくる。
アンボンに到着したのが朝方であったと思う。本船より積んできた物資や郵便物などの荷降ろしが始まった。夕方の出港時間までの僅かな時間であったが半舷上陸を許され先輩と上陸した。この街もやはり何も無い街。 現地の人の厚意でバナナやマンゴなどの果物を安く食べさせてもらい、バナナ一房を持って帰船した。
 さすがに赤道直下といってもいい所(南緯十度)、暑くて汗が止まらない。時折海から吹いてくるそよ風がとても気持ちいい。南の島の緑は濃く、今まで見たこともない植物を眺めながら束の間の大地を踏みしめ楽しい島見物をしたものだった。
 太陽が西に沈みかける頃、氷川丸はいかりを上げ再び次の寄港地であるインドネシアのジャワ島スラバヤヘの航海についた。

24 ジャワ島

 アンボンを出航して一時間くらいたった頃、太陽も海に沈んでしまった後であったと思う。私と先輩二、三人で夕食後機関部員の居住区デッキに出て涼んでいたところ、海軍将校より敵潜水艦が航行中との伝達があった。私も先輩達の指差す方向を見ると潜望鏡が肉眼でもはっきり見えた。その潜望鏡はどのくらいの間であったかわからないが氷川丸を監視した後、病院船であることを確認したのだろう、海上よりその姿を消した。ほっと胸をなで下ろし、その日の作業は終わっていたので私はベッドに入った。
 四日間の航海も終わり、氷川丸は予定のジャワ島スラバヤに昼も近いころ入港し、桟橋に接岸した。
このスラバヤには四日間停泊するということで半舷上陸が交代で二日間許可された。
 翌日十時頃先輩達二、三人と上陸許可をもらい船から降りた。赤道を越えた南の空は雲一つないいい天気。太陽はさんさんと私達を照らし続け、半袖のシャツの上からでもジリジリとその暑さが伝わってくる。だが海上からこの島に吹き上げるやわらかな風が頬をなで行き、またカラッとした陽気のせいか蒸し暑くもなくどちらかといえば心地よい。道路のアスファルトはやはり太陽の熱で軟らかくなっており、歩くと少し沈む。氷川丸の接岸している所はダンジュベラといってスラバヤの街まで歩いて三十分ほどであったと思う。

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 スラバヤの街にはたくさんの商店が並んでいる。商品があふれるほど陳列されている。皮製品店、菓子店。また甘い香りのする果物屋には、バナナやマンゴスチンなどの南洋の果物など、私の知らない農産物などがぎっしり並んでいた。
当時の日本の商店には並べてある商品などほとんどない状態で、食堂に行って定食を頼んでも米は一粒も見当たらず「ひじき」がその代役をつとめていたほどだった。この島の物の多さを別世界に来たかのように驚いたものだった。
 先輩の一人が食堂を見つけ「食事をしよう」と言うので全員その食堂に入った。
見ると他に客は誰もいない。がらんとしていたところに入ったのでウエ−トレスも急いで笑顔で出てきて、やっと覚えた片言の日本語で「イラッシャイマセ」と言って私達を案内してくれた。「コチラヘ」と言うので後をついて行きテーブルについた。この食堂は個室形式になっていて隣のテーブルは囲いがあって見えないようになっている。
「ごはん!」と私達が言うと優しそうな笑顔で「シロイオコメノゴハンネ」と言って出ていく。厨房へ注文して来たのであろう、しばらくしてまた私達のテーブルに来ていろいろとサービスをしてくれる。                   
「ワタシ、ニホンノウタシッテルヨ」
「そうか、それじぁ歌ってみて」と私が言うと、さっそく当時の軍国歌謡の「真白き富士の嶺」を歌ってくれた。上手なものだ。
食事ができたらしく奥の方から何やら声がかかった。しばらくしてウエートレスが真白い細長い米粒のごはんとフライのような料理を持って来た。そして私に「オイシイカ?」と聞く。
私は日本の米よりまずかったが−「美味しいよ」といい「年いくつ?」と聞きかえすと「十六」と言う。私にはどうみても二十二、三才に見えた。暖かい国の女性は日本の女性よりも少し年をとったように見えるのだろうか。
「マスター、ドコノフネカ?」
「氷川丸という病院船の乗組員だよ。どうだ、一緒に日本へ行くか?」
「イキタイ・・・」
「本当に行くか?」と念を押して聞くとしばらくして
「ワタシ、モットオカネタメテカライキマス」
一日目の上陸はスラバヤの街を中心に近郊の風景を観覧した。
土を見ると真黒といっていいほどの土で農家の人々はさとうきびや野菜を栽培している。街の人達もみんな平和に暮らしているように見えた。
あちらこちらの街角では日本兵が住民に日本語を教えている。
夕方帰船の時間が来たので氷川丸に戻り、翌日は船内での軽作業であった。
 二回目の上陸の日の朝、太陽が昇り始めた頃、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り始めた。すると間も無く星のマークを付けた米軍機二機がこのスラバヤに停泊してきた。駆潜艇一隻に集中攻撃。日本の軍艦も交戦するが米軍機の波状攻撃には勝てず、船体は傾斜し始めた。それを見てか米軍機はどこか海上遠くに飛び去って行った。
我が日本軍艦は沈没は免れ、負傷兵もごくわずかだった模様で、氷川丸では治療せず、スラバヤの野戦病院へ運ばれていったとの事を聞いた。
 スラバヤは再び静けさを取戻し、南の太陽がジリジリと我々を照り続けている。
午前十時に上陸許可がおりて先輩達三人と街に買物に出掛けた。氷川丸が停泊している岸壁の地名を現地の人はタンジュンベラと言うそうだ。通貨は日本の占領時であることから軍票といって日本軍が発行する紙幣であった。
 当時、軍の達示で現地人には九十銭より多くは与えてはならない事になっていたが、私達は一円を渡してその買った物を船まで運んでもらうことにした。一円を渡したら店の人は地べたにお座りをして両手を上げてありがたがっていた。そして「他に買物をするからここで待っていろ」と言ってその場を離れた。当時はドロボーをされてもドロボーをした事は罪にならない風習のようで、ドロポーにあったようなら市場に行ってござの上に並んでいる自分の物をお金を出して買い戻さなければならなかった。この市場を現地の人はショトル市場と言っていた。先輩の一人もここで時計を取戻していた。
私もこの市場で日本の御土産にと砂糖を二十五貫(約百・〉を十円で買い求め、姉達にと皮製品のハンドパックのような袋物、そして石油缶一杯の飴をポケットマネーを軍票に替えて買ったものだ。このジャワ島にはいろいろな物が数多く売っており、まだまだ買い足りなかったがお金がなかった。というのも氷川丸の乗船命令が出た時、以前乗っていた興津丸が沈没して何もかも失い、お金を持っていてもまた同じような事になるのではと思い、故郷の父宛にほとんど送ってしまった。
 二十五貫入りの砂糖を買った時、現地の人が荷物を運ばせてくれと言うのでお金を五、六円渡したら喜んで私のことをマスター、マスターと言って買物が終わるまで私から離れずいろいろと案内をしてくれた。お金を多くもらったと他言するなと言い聞かせて買物を終えて馬車を一台用意させた。間も無く現地人二、三人が馬車を持ってきて私の買った砂糖や御土産物を積んでダンジュンベラヘ向かった。
この馬車を引く馬は二頭で何という種類の馬か知らないが、たいそう小さな馬で、生れたばかりの子牛程の大きさ。しかも顔を見ればずいぶん年をとった馬であった。
赤道に近いジャワの大地に照りつける太陽の下、タンジュンベラに着き病院船氷川丸が接岸している桟橋から私の居る船員室までその現地人はウンウン言いながら重たい荷物を運んでくれた。私は「有難う」と言ってその現地人を帰した。
夕方四時すぎに夕食を済ませ、部屋の掃除等をして休息に入った。これで四日間の停泊も終わりに近づき明日はいよいよこのジャワ島を出発して次の寄港地へ向かうことになる。このスラバヤに入港してから次の行先は昭南〈シンガポール)であると告げられていた。
 夜も更け始め少し涼しくなってきた頃、ようやく眠りにつくことができた。

25 シンガポール

竜宮城にでも行ったようなジャワ島を出航して病院船氷川丸は赤道直下のシンガポールに二日間の航海を終え、桟橋に着岸したのは昼ごろだった。さすがに赤道直下、と言っても僅か一、二度北ではあるが、暑いという他に何といってよいかわからない。私のような北国育ちの人間はなおさらであろう。黙っていても汗が流れる。
船が着岸した後、機関の手入れなどそれぞれの担当の機器を整備して入港の一日は終わった。シンガポールは日本と二時間程の時差があるので午後八時といっても太陽がまだ水平線に沈まず、まだ暑い。(東京とシンガポールは二時間の時差があるが、海軍の命令に従い、時間は日本時間と同じに日程をとり、時計を速めたり遅くしたりはしなかった)太陽が西に沈み夕闇がせまる。眠くなる頃なのだが未だ船の鉄板が焼けており、地表の熱も冷めず熱いままだ。十二時、すこし涼しくなりそれでも汗をかきながら眠りにつく。
シンガポールは五日間停泊するというので次の日、先輩と共に上陸した。始めて見るシンガポールの街、桟橋から歩いて間もなく広い道路に出ると電車が走っている。よく見るとレールがない。自動車のタイヤだ。我々は日本人だと当時は肩で風を切るというか、ややいばって道を歩いていた。すると電車は私達をよけて通っていく。やがて商店街に入り、そこに居る人々がほとんど中国人だということを聞いた。先輩はここに住んでいる人達を華僑といっていた。中国人らしき小学生くらいの少年が道端でタバコの一本売りをしていた。我々にタバコを買ってくれと身振り手振りで言っているようだ。そういえば少年の前に日本製のタバコ「光」や「ほうよく」といったタバコが並べられている。商店街だからいろいろな物を売っているが前の停泊地ジャワのスラバヤより品物は少なく、特に食料品店は蝿が右往左往していてとても不潔であった。見学して歩いて行くと、遠くより何か楽隊らしきものが来たらしく吹奏楽の音が聞こえてきた。日本でまだ私が小さい頃聞いたサーカスの呼込みのような、またチンドン屋のような感じがしたので先輩とその楽団の来るのを立ち止まって待っていた。
吹奏楽の音はだんだんと大きくなり、見るとその楽隊の後ろに白い衣を着た人達がお祭り「みこし」をかつぐように何人もで大きな箱をかついでいる。その箱から白い布ひもをたくさんの人が持っている。そこで私は始めてこの地の人の葬式である事がわかった。その棺のあとに二、三十人の男女が涙で顔をくしゃくしゃにしてワーン、アンアンと泣きながら後についていた。後で聞いた事であるがこの人達は泣き男、泣き女といって頼まれて葬式に加わっているとのことだった。
 一日目の上陸は街の中心部を見て歩き、次の上陸は入港三日目であった。この日は先輩五、六人と当時駐留していた日本軍の軍用車でシンガポール島内とジョホール水道を渡って、マレー半島(現マレーシア)の南端ジョホールバルという所へ行ってきた。このジョホ−ルバルに以前マレー半島の王様の宮殿があり、日本軍が占領して軍部の司令官が駐在している所だと聞いた。軍用車の軍人がこの指令官との用件のため乗せてくれたので、その用件の会談中私共は宮殿を見て回った。今でこそ日本では珍しくはないが廊下は赤いじゅうたんが玄関から敷きつめられ、天井には大きな扇風機がゆるやかに回っており、廊下の隅には見たこともない置物があった。十八才の私には目を見張る珍しい宮殿であった。この宮殿はマレー半島の最南端の小高い丘の上にあった。外に出て眺めれば日本軍がシンガポ−ルを占領するのに、今見ているジョホール水道を渡って、目前にあるシンガポール島へ進撃したのだと聞かされた。今思えば幼少の時から軍人はあまり好きではなく、その思いのまま船員になったので複雑な気持ちで眺めたものだ。帰途はまた同じ道を通ってジョホール水道を渡る。この水道は道路と鉄道が平行して通っている。
日本軍がシンガポール占領の時はこの道路や鉄道を破壊せずに前記のジョホール水道を越えて占領したとか、このような話を聞いたが事実は私の記憶にない。この水道を通ってシンガポール島に入ると左手は石油タンクが並ぶ石油基地がある。当時は戦禍で破壊された貯池タンクやパイプが散乱していた状況が今でも思い出される。この近くで軍用車を降り、小高い山に登ってみる。山の散歩道も至る所アスファルトで舗装してある。その後、街へ出てシンガポールの駅へ行ってみる。当時昭南駅と書いた大きな木の表札が駅の入口に掛けてあった。ホームにはマレー半島に向かう列車が停車しており、乗込む現地の人が荷物を持って我先にと走る姿を見て日本人も外国人も同じだなあと感じたものだ。
駅を見た後、近くに公園があるというので先輩達と行ってみる。ゆるやかな広場で芝生もきれいだ。右手を見ると鳥居がある。その横に昭南神社と書いてある立札をみつけた。
先輩の一人はここでイギリスの司令官パーシバル将軍が降伏した所であり、また日本の山下将軍が無条件降伏をイエスかノーかとせまった所だと言って教えてくれた。一日じゅうシンガポールを見て回り、夕方氷川丸に戻った。相変わらず暑く、どうしても十二時を過ぎなければ眠ることができない。
四日間の停泊も入港してから五日目に次の寄港地マニラに、向けていかりを上げた。

26 入院、そして帰郷

昭南を出て五日目の午後、マニラの港が見えて来た。右にコレヒドール島を見る。
開戦の時の激戦地で砲弾のあとが生々しい。マニラは二日間の停泊であった。ここでも先輩と上陸した。
前の寄港地スラバヤやシンガポールに比べると静かだと言おうか寂しいと言おうかそれとなく活気がなく、見る物もほとんどない。
フィリピンの人々は我々日本人を見ても何も話かけては来ず、今思えば冷たく感じた。


上陸して一時間位たっただろうか、氷川丸に帰るために船の着岸している桟橋に近い方の通用門を通ろうと守衛の兵士に敬礼をして行こうとした時だった。
陸軍の兵士であるその兵士は「ちょっと待て!お前らは海軍だろう。海軍の通用門はあっちだ。あっちに行け!」
と言って通してくれなかった。わずかではあるが近道をしようと思ったが、結局遠回りをして帰船した。
その時、私は思った。同じ帝国陸海軍であるのに陸軍の通用門をどうして海軍軍人は通ってはいけないのか?
現在思えは陸海軍と言えども同じ日本人、当時の大本営発表等を聞けば「帝国陸海軍は緊密な協力のもと××を占領した」とか盛んに陸海軍一体となって戦っている様な事を報道していたが、ここフィリピンでは感情が憎しみのように思えた。


 この頃我が軍は各地で敗戦、しかし国民には負けたような報道はしていなかった。
米軍はマーシャル群島を上陸し、マリアナ海戦に我が海軍の艦船、巡洋艦「阿賀野」「香取」等、数隻の艦船が沈没。
まさに戦い我に利あらず。
私にも不安ではあったが大本営の発表は「米軍に多大な損害を与えたり。我が軍の損害軽微なり。」と報道していたが、戦場では苦しい負け戦、陸軍に言わせれば「海軍は何をしている」と海軍に不満一杯であったであろう。それが私共海軍軍族にまで当りちらした言葉であったのではないかと思う。
当時陸軍が海軍に不満をいだいていた証に陸軍が潜水艦を作り船舶兵という兵科を作っていた。
私はこの陸軍の潜水艦を間近に見て、今も頭のどこかにはっきりと思い浮かぶ。
大本営の言う『緊密な協力』などまるでウソが多かった戦争であろう。
無駄な費用、国民が食べるものなく頑張っているのにそんな陸海軍では何を言わんかで戦に負けて当然かと今になって思う。


 話は横道にそれたが、マニラを出発したのが昭和19年5月20日、いよいよ最終寄港地の九州佐世保軍港に向けていかりを上げた。
戦場をひと回りしていよいよ日本。
 あと一夜で佐世保入港という前日の事であった。
上司に氷川丸機関室の下にある貯水槽の掃除をするように言われ私は「はいっ」と言って上司が開けたマンホールに足から降りていこうと中に入った。
このマンホールのすぐ近くを何のパイプか私には不明であるが通っていた。
下に降りるにはこのパイプが邪魔で体をよじらなけれは降りれない。
私は体を右に曲げたところ、左の胸の肋骨から二本か三本目あたりの所でコキンという音がした。
痛みがひどくとても苦しく、マンホールより、はい上がりしゃがみこんでいると上司の繰機長である山田喜助という人に「どうした。痛いのなら上がって休めと言われ居住区の船員室で休んでいると、「医務官に診てもらえ」と言われ,一等機関員の近藤正治郎(北海道上磯町出身で後の青函連路船桧山丸でも同じく乗務した人)に連れていかれた。
海軍の医務官に診察してもらうが痛みは一向に治まらない。
体を曲げるにも苦痛であった。
他の同僚達は皆仕事をしている。
私は痛くて仕事もできず本当に困って、その夜は眠れず朝を迎え次の日も痛みは止まずまた医務室へ行き医務官の診察を受けた。
痛みのする胸は少しばかり腫れているようだ。軍医は当時流行している結核ではないかと言ったり、胸膜に水が給ったのではないかと大きな注射器の針を胸に刺したがいくら注射器を引いても水は出てこない。
 軍医にもはっきりとした病名もわからず「胸摸周囲種腫の疑」という病名であったと記憶している。
6月4日の午後佐世保に入港するまで痛みは止まらず、頭ももうろうとしているので山田繰機長や機関長は入港したら佐世保の海軍病院に入院するように言われた。
入院してからも一向に痛みは治まらず、夜とともに熱が出てきて苦しい。
北海道と九州では当時はとても遠い遠い所。知人親戚だれひとりいるわけでもなく、遠い故郷の事を思いだしながら一人ベットで寂しく苦しさに耐えていた。
 何時頃であったかはっきりとしないが従軍看護婦の制服を着た看護婦が体温の計測だといって体温計を渡された。
計り終わった体温計を見ながらその看護婦は「随分熱がありますね。九度××分....」と聞こえたが私もだだもうろうとしていたので言っている事はよく理解できなかった。
間もなくその看護婦さんは水に浸したタオルで顔を冷やしてくれた。
その日一晩中私は眠れず,またその看護婦さんも眠らないで頭のタオルを取替えて冷やしてくれた。
この時私はその看護婦さんの顔を見たのだが本当に美しく、そしてとても美人に見えた。
帽子には赤十字のマークが付き服は白衣ではなく従軍看護婦の紺の制服。
私はまだ18才の少年であったがこの若い〈私には22、3才に見えた)従軍看護婦が命を助けてくれる神様のように見えた。
一晩中冷やしてくたかいがあって明け方から少し熱は下がってきたようだ。
看護婦さんも疲れたのであろうか休息しているのかしばらく見えない。朝食におかゆ(ほんのオモユ)を少し食べ少し眠りにつくがまだ胸が痛い。
氷川丸に居る時よりは少し痛みが和らいだようだが・・・


軍医の診察。そして貼り薬をして三角布で押さえ、体温測定等して病院生活が始まる。
三日目であっただろうか、あの日熱を冷やしてくた看護婦さんが見えない。
今日は非番日なのであろうか、それとも他の病棟勤務なのだろうかと気になり始めた。
私はまだ18才で名前を聞く等の度胸はない。ただ言われた事に「ハイ」と返事をすることしかできない。
美人だったし、私にとても親切だったようだし、ちょっと寂しい気持ちであった。


6月13日氷川丸は横須賀に回航することになり、乗組員の私は氷川丸の管轄である横須賀管轄の神奈川県の野比にある海軍病院に転院することになった。
朝から痛い胸を押さえながら身の回りの物を整理しているとあの看護婦さんが来てくれた。
私はお礼のしるしにとジャワのスラバヤで五銭で買ってきた金メッキの懐中時計を「いろいろとありがとうございました」と言って渡した。
その時看護婦さんは私に何か言ったような気がしたが痛い胸とは別の胸がドキドキしていて今は覚えていない。
 いよいよ氷川丸に乗る時、この看護婦さんは私の左の腕をくんでくれて船の停泊している桟橋まで送ってくれた。
患者衣を着ていた私は振向いて手を振り乗船した。
もし、この名も知らぬ看護婦さんも生きていれば70才を越えているであろう。できることならもう一度逢ってお礼を申し述べたい気持ちである。
氷川丸は横須賀に入港した所で私は船を下船する事になった。
二ヵ月の短い氷川丸の乗組員であったが様々な思い出があり、今でも横浜に繋留されている氷川丸を見ると懐かしく思えてくる。
野比の海軍病院に入院させられた。私は胸の病気という事で結核患者の病棟に人れられ結核患者と同じ日課で過ごすことになった。
熱は出ないが体を動かせはいまだ胸が痛い。

この病院に来て一週間くらいたった時のことだった。
当直衛生兵に岡崎、面会人が来ている。面会室に来い。」という連絡があったので面会室に行ってみると北千住のキクノ姉さんが信子を連れ、また姉さんの友人である向かいの橋本さんという奥さんと共に面会に来てくれた。
四月半ばに氷川丸乗船を命じられ、横浜で別れた肉親キクノ姉さんと二ケ月振りにこの野比の海軍病院で再会する。
このことは私にとってはとても不本意であり残念であった。
しかし、キクノ姉さんが北千住よりはるばるこの遠い野比(神奈川県)の海軍病院まで来てくれた事は本当に嬉しく心強かった。
決められた短い時間であったが今となっては何を話したかは記憶には乏しいが、私に力を与えてくれた事、そして[きっと良くなって!」と言ってくれた事はよく覚えている。姉さんはにっこり笑って「早くよくなるんだよ」と言う言葉を残し、友人の奥さんと帰っていった。
その日も暮れ、また毎日の病院生活。
号令で脈を計り、号令の笛で食事。
結核病棟に入れられた私は納得がいかず、氷川丸でタンク掃除に入る時、体を横に曲げた時、胸がカクンと言ったような気がする、と軍医に話しても病名を判明せず結局この病棟に入れられた。
結核の治療をさせられたが私は結核ではないと信じていた。
姉さんが帰ってからは私は結核ではないと強く信じていた。
するとあら不思議、四、五日したら今まであった高熱がうそのように下がり始め、一週間ほどで平熱に戻った。
胸の赤く腫れた箇所も赤みは取れ、体を曲げてもさほど痛くはなくなって来た。
軍医も不思議そうであったがことさらよくなっている。「あと一週間様子を見てからだな。」と言われた。
私の目の前がパッと明るくなった。退院まであと二日、一日と益々体の調子はよくなっていった。
退院当日、軍医に完治したという証明を貰い野比の海軍病院を後にして横浜の郵船会社へ出社した。
すでに海軍病院より連絡があったらしく、係りの人は「オー治ったか、ところで北海道の砂川から徴兵検査を受けるようにと通知が来ている、砂川へ帰りなさい」と言われ、会社は待機予備員ということで解放された。
そのあと、北千住の姉さんの家へ行った。
姉は直って良かったね、と言って喜んでくれた。
私が海軍病院に入っている間、氷川丸がジャワ島のスラバヤに入港している時、私が買った砂糖やいろいろな御土産は同じ乗組員であった函館出身の近藤正次郎さんが姉の家に運んてくれたとの話しなどして夜遅くなって就寝した。
翌日砂川へ出発したと記憶している。
前記の近藤正次郎さんは後に私が国鉄に採用され青函連絡船桧山丸に乗船勤務していた時も同乗し、大変お世話になった人である。改めてお礼を申し上げたい。

27 徴兵検査と万歳

砂川に着いて父は嬉しくないのかよくわからないが、国のため軍人として戦地に行かなくては、と言うような事を盛んに言われたような気がする。
  昭和19年の7月の半ば頃であったと思うが徴兵検査があった。
素っ裸で前にカーテンのような物がふんどし代わりに下げられ、検査官の前で調べられた。
ちょっとの間休憩があって、一人づつ一段高い壇上にいる検査長であろう、陸軍の軍服を着て金すじを沢山つけた軍人の前に私は呼ばれた。
一礼をしてその将校の顔を見るとその将校は軽く笑顔を作り「岡崎延成、甲種合格」
一瞬,直立不動の姿勢をとり「岡崎延成甲種合格」と復唱した。
するとその将校は「君は船に乗っているのだな。海軍がよいな。」と言う
私は「はい,海軍へ行きたいです。機関部の仕事をしてきたので機関兵にしてください」とはっきり言った。
すると将校は「よし分かった。海軍機関兵にしよう・」と言ってメモしていた。
私は一礼をして下り最後の係の所に行くと「帰ってよろしい。」というので支度をして我が家に帰った。
  一番先に父に「お父っあん、おれ甲種合格だったよ...」と言うと父は大喜び。
「これで、おれの子四人とも全部甲種合格だな」と笑顔。
私は今でも忘れない、父のあんなに喜んだ顔を見たのは・・・・・・
徴兵検査が終わって三、四日、ただ何となく過ごしていると、私宛に小樽海員学校養成所より8月7日静岡県浜名海兵団に入団せよとの書類が来た。
迷った。今、徴兵検査て海軍に行くことにしたのに...


一日ゆっくりと考えた。
小樽海員養成所へ一年間国費で授業を受け、無料で勉強した見返り義務として、海軍予備役として海兵団に入り、軍人数育を受けなくてはならない約束になっているのだ。
現役で軍隊に行くより、海軍予備補習生として海兵団に三ケ月半行くと、退団と同時に海軍上等機関兵となり、その後の三年間船舶に勤務すれば海軍予備兵曹長となれる優遇制度があった。
父の願いとは反するが、私はもともと軍人は好きではなかったので海軍予備として浜名海兵団に入団することにした。
8月の始め、私が海兵団に入団するというので砂川吉野部落の人達が盛大な送別会をしてくれた。
18才の私は何て挨拶してよいかわからず、部落婦人会の人達が作ってくれた千人針を肩からかけ、「元気に行ってきます」と一言いった。
忘れもしない8月3日、砂川午後2時9分発の列車で故郷を後にした・・・
部落の人々の力強い励まし、そして声を揃えて歌う軍歌・・・『天に代わりて不義をうつ・・・忠勇無双の我が兵は・・・』その日は晴れのよい天気であった。
部落の人々は鉄道線路の沿線で、私の一番上の姉はホームに入って見送ってくれた。
やがて列車は黒い煙をはいて滝川方面から近付く、その時、歌志内より到着した列車より大勢の小、中学生が下車し、私の入団姿を見ると一斉に「ばんざ~い、ばんざ~い」の嵐、私の気持ちも一瞬引締まったものだ。
間も無く上り列車が砂川駅に停車した。
私は一歩列車のデッキに上がり、手すりにつかまり有難うございました、と見送りの人達に頭を下げていた。
こんなにして見送りしてもらい、死んで故郷に帰っても悔いはない、きっとお国のためになるよう命も惜しまないと心に誓っていた。
やがて列車は発車のベルも止まり、少し動き出した。見送りにきていた親代わりだった一番上の姉が列車の動きと一緒に走りながら「延、死ぬなよ…生きて帰ってこいよ…」と叫んで走ってくる。
駅員が「危ない危ない」と引っぱられていった姉の姿を見、ホームで万歳、万歳と叫ぶ部落の人の声も上の空で聞き、駅のホームが小さく消えて行くまで見つめていたものだった。
そして過ぎ行く故郷の景色をただぼんやりと見過ごしている私だった。


 やがて列車は東京駅に着き、姉の所で入団の七日朝、東京をたつまで過ごすことにした。
私が氷川丸を下船した時近藤さんに運んでいただいたジャワ島スラバヤで買った砂糖、姉さんの家に預けてあったのを姉さんの家の持ち主の大家の小久保さん、そして姉さんの家へ。信子ちゃんの子守等よく遊びにきていた杉本さんという女の人にも砂糖を分配した。
甘いもの一つない時だったのでとても喜ばれ、お礼をいわれた時はとても嬉しかった。
いよいよ8月7日の朝、浜名海兵団に入団の日がきた.姉さん、大家の小久保さんの奥さんにも「行ってきます」と挨拶をして北千住の駅に向かった。
姉さんは「延ちゃん、身体に気をつけるんだよ」と言ってくれた。その目に光るものが見え、私も胸がつまる思いであった。背後で「おばさん、おばさん」と姉を呼ぶ声がする。
私も姉も振り返って見ると女の人二人が近づいてくる。
そして姉に「私たち延成さんを東京駅まで見送りに行ってくる。」と言っている。杉本さん姉妹である。
いつ延成さんと覚えたのか、きっと姉が言っていたのを聞いて覚えたのか、それとも姉が教えたのか。
満19才になったばかりの私はこの杉本さんの姉は嫌いではなかった。
まして東京駅まで送ってくれるとは、こんな嬉しいことはなかった。
姉は「延ちゃん、杉本さん東京駅まで送ってくれるとサ」と言われ、「あ、ありがとう」と言ったかどうか今はよく覚えていないが、女の人と一緒とは生まれて始めて、会話をするのも始めて、ただ顔が赤くなったような気がして胸はドキドキするばかりだった。
北千住の駅で姉と別れ、電車に乗り東京駅の改札口までどんな会話をしたかなにも覚えていない.ただ黙っていたのかも…
改札口で杉本姉妹が「お元気で、さよなら」と言って別れ、大阪行きの列車に乗った.列車の中でも杉本姉妹の送ってくれたことを思い出し、北海道にはいない美しい人だったように見え、海兵団に行くのが口惜しく思ったものだ。
でも海兵団に行かなくては非国民にされ、つかまれば軍法会議でどうなるか分からない。そんな事は間違っても出来ないのだ。
やがて列車は静岡県浜名湖の鉄橋にさしかかる。そして弁天島と駅員の声、次の駅が新井町。
ここで列車を降り、駅待合室に行くとたくさんの人がなにやら会話をしている。
その内何人か小樽海員養成所の同級生がいた。
「オウ、オウ」と声を掛けているとそのなかに一番親しかった鈴木鈴雄君を見かけた。
同じ郵船会社でもある事から
「お前、何丸に乗っているんだ?」
「ん、俺は氷川丸に乗っていたんだ。」
「オレ、阿波丸(後に米潜水艦に撃沈される)に乗っていたんだ。」
それからいろいろと積もる話しに花を咲かせていいると、集合の午後一時が来てしまった。
海兵団から迎えの人であろう下士官が三、四人
「舷門(海軍では入り口の門の事をこういう)まで案内する。本官についてこい!」
軍隊そのものの威張りようだ。
新井町の駅を背にして、畑のなかの道を海岸に向かってゾロゾロと舷門に近づく。
海兵団内に入り、案内の下士官に一棟の兵舎に入り一教班より六教班の氏名が発表された。
私は第六班で班長は宮崎という二等兵曹、正式名は浜名海兵団第三十一分隊第六教班という。
鈴木鈴雄君も同じ教班で本当に私と縁があって心強かった。
いろいろ訓示があったと思うが上の空というか、緊張していたせいというのかあまりよく覚えていない。
訓示の後、持ち物は自分のトランクに、そして持参金は全部班長に預けるようにいわれ供出した。
海軍二等兵の制服と作業服が配給され、制服に着替え入団式。夕食には赤飯が出た。
厳しいといわれていた海兵団の割りには、結構歓迎してくれているのだなとやや甘く見ていた様だ。

28 浜名海兵団

次の日からラッパで起床、ラッパで就寝の軍隊生活が始まった。入団して三日目の朝、錬兵場で訓練があった。宮崎班長の軍事訓練の説明があり

「班長が説明しているときは班長の目を見ておれ!!」と言っていた。
私は班長の目を見ていたが、隣の日の丸の旗が朝日に輝き空は真っ青のよい天気、少し気がゆるんだのか、いつの間にかついその日の丸の旗に目が行ってしまった。

「そこの兵隊!どこをみている!」と私の方へ指を差す。
入団したばかりで班長は兵隊の名前を覚えていないのだろう。私は隣の兵隊の顔を見る。すると班長は
「お前だよ。お前だ。そんなに見たいのならそちらを見ておれ。三歩前へ!!」

言われるまま三歩前に進み、その日の丸の方向に向かって立たされた。

 そのうち六供班の軍事訓練も終わり、夏の焼けつくような太陽の下、広い錬兵場に立っているのは私一人だけ。
錬兵場は静かになり昼食をしているのであろうか誰も呼びには来ない。
入団の時、分隊長よりの言葉に『上官の命令は、おそれおおくも陛下の命令と思って聞け!』と言われていたのを思い出し、一寸とも動くことは出来ない。やがて、午後の日課も始まっている頃、錬兵場はどこの兵隊も出ていない。
たぶん兵舎で学科が始まっているのであろう。

 やがて熱かった太陽も西の空に傾き、涼しくなってきた午後5時頃、錬兵場を横切る分隊長が向きを変え、私の所に近づいた。

「どうした?」

「教班長の説明の時、よそ見をしていて立たされました。」

「教班長の所に行ってあやまれ。」

朝から初めて歩いた。

教班長室に行くと班長どうしが雑談をしていた。

「宮崎教班長、許してください!」と言うと他に何も言わず「よし」と言っただけだった。

結局許してもらえたが昼食は食べさせてはもらえなかった。夕食は食べさせてもらえたが食べた後もお腹はぺこぺこであった。

 起床ラッパと就寝ラッパの軍隊生活が始まって一ヵ月位経った頃の事だったと思う、厳しい訓練の後、私は十数人の兵隊と食事当番であったので小上がりの兵舎にテーブルを置き、運んで来た食事の用意をしていた。
以前から食事をする兵舎では草履を履くようにと言われていたが、八月の暑さと班長の厳しい命令『早くしろ、軍人は一刻も無駄には出来ぬ。トロトロするな』と追い立てられ

ているため、私を含め兵隊は皆素足で食事をしていた。そこへ小野田一等兵曹が精神棒を持って大声をあげてやってきた。

「草履を履いていない兵隊はここへ整列!」と号令がかかる。
私は気がつくと草履をはいていない。二、三人の兵隊を除いてほとんど履いていないようだ。十人ほど兵曹の言うとおりに整列をする。汗が額より流れ落ちている。小野田兵曹は第一班の教班長である。整列が終わると訓示が始まった。

「お前達は帝国海軍。軍人である。おそれおおくも天皇陛下の軍隊である。上官の命令は陛下の命令だと思え!陛下の命に違反したお前らはこれから処罰される。」と言って精神棒が床に一回ドスンとたたかれた。

「全員後ろにあるその台に腕立て伏せして足をあげよ!」

兵舎の窓ぎわに物入れになっている棚板が長い兵舎に備えてある。
床より五、六十センチほど高い、そこに両足を上げ半分逆さまになって腕を立てて伏せた。
次の命令は「全員腕を半分曲げよ」との命令。
ただ腕を伏せただけでもつらいのに、足を上げ腕を半分曲げての罪。上官の命令は陛下の命と言われ、私達全員命に従った。

時刻は正午を少し廻った頃、快晴で真夏の太陽がさんさんと降り注いでいる静岡県新居町浜名海兵団。一分もすれば汗は流れ落ちる。やがて二、三分と経っていくと流れた汗は床にしたたれ落ち、やがて水をまいたように光り始める。私を始め全員つらくてウンウンとうなりはじめた。すると小野田上等兵曹が精神棒で「しっかりしろ、何だ帝国海軍軍人が。」と言って尻を順に二つ三つ叩いてまわる。叩かれて腕がヘナヘナになって床に胸がつく。するとまた一つ精神棒が尻に飛ぶ。もういたい感じすらなくなる。汗は滝のように流れ落ちる。隣の兵隊も満天の力をこめて腕を上げるがウンウンと半分涙が汗と一緒にしたたり落ちていた。もう私はボーとなって意識ももうろうとなってきたころ、小野田上等兵曹は言った。

「オウオウ死ぬか。死ね、死ね。お前達みたいなものは死んでも困らない。兵隊は一銭五厘の葉書でなんぼでも来る。馬は五円、十円払わないと来ないけどナ。」この言葉だけは口惜しくて口惜しくて今でも耳に残っている。

 海兵団の思い出はと言えば、今思うに楽しいことなど一つも思い出されない。ただ殴られたこと、罰を受けた事くらいしか記憶にない。海軍の学科の講習もあったように思えるが何一つ覚えていない。

 退団も近い頃、浜名海岸で夜間、陸戦隊の訓練があった。
銃も貸与され、海岸の草むらをはって進むという訓練。
私は叩かれていたせいか軍人には興味がなくなり、この演習の時はいつも皆の後方について行った。
いよいよ最後の突撃の進軍ラッパが鳴り、前に進んだ兵はオーオーと叫んで前進していく。私はといえばお腹ペコペコ。ふと見ると民家のさつまいも畑。
盛土がしてあり、手を土に入れてみると芋がなっているではないか。いきなり手前に引くとポロリと取れてくる。真っ暗な闇夜、土のついたままのさつまいもを生で食べる。ヒョッと隣を見ると同じようにイモを食べている兵隊がいる。先に突撃していった兵はすでに整列して班長の訓示を聞いている。私とその兵は忍び足で列の後方に並んで知らん顔をしていたという思い出がある。

 やがて三か月半の軍隊予備役の訓練の終わり、明日は錬兵場で海兵団長より進級の辞令をもらい、退団して郵船会社へ戻れるという前夜。一番嬉しい一日であった。

班長より階級章と黒い布(階級章の大きさ)が全員に配給された。
その階級章は上等機関兵だった。これをセーラー服の左腕に縫付け、その上に黒い布を一か所だけ止めることを命ぜられ、全員が取り付け始める。
私も今まで海兵団でつらかった事も忘れ、針を運ばせていった。
隣の兵達もなにやらしゃべりながら同じように針を運ばせていった。
やがてこの作業も終わり、明日の退団式を待つばかり。夜の点呼の就寝ラッパがこんなに嬉しく聞いて寝るのは軍隊生活最後で初めてだった。

 明けて昭和19年11月25日午後六時の起床ラッパで飛び起きた。いつもの朝の点呼、朝食が終わって班長の訓示も今までとは違って言葉使いもやさしく、親切な様に聞こえた。午後九時錬兵場において兵団長より訓示があるとの事。それまで自由時間。この海兵団の門をくぐって初めてのくつろいだ時間であった。快晴の空、いったい何処で戦争をしているのか疑いたくなる様な穏やかな日であった。太平洋に目を向ければ太陽の光りでキラキラとさざ波が漂っている。陸上はといえば色づき始めた樹々の枝がかすかに揺れている。

 九時きっかりに退団式は始まった。私はその訓示は覚えていない。

とにかく早く故郷へ帰りたい、そして郵船会社へ行ったら何を話そうかと、そればかりが頭より離れない。訓示が終わったであろう、分隊長の声が聞こえる。

「これより進級の辞令を恐れ多くも陛下より下賜され兵団長より伝達する。」

我々直立不動である。兵団長は壇上に上がり、水兵科に続いて我等機関科の順になった。

「だれそれ以下百八十名海軍上等機関兵を命ず。」広い練兵場に兵団長の声が響く。その兵団長の「命ず」の言葉が終わると同時に、昨夜階級章の上に仮に縫い付けた黒い布を、前方を見つめたまま静かにとり除いたものだ。この時はつらい海軍生活のなかで一番嬉しかった。この嬉しさはつらかった日々と共に忘れない一日であった。

 式が終わって兵舎に戻る。今、着用していた軍服も下着も軍隊から貸与されていたもの。全部返納し、全員私服に着替えて浜名海兵団を振り返りもせず門を出た。後は苦楽を共にした鈴木鈴雄君(横浜在住)と東海道本線新井町駅へ向かった。そして列車の客になって桜木町の日本郵船横浜支店に出頭し、少しの休暇をもらった。再び鈴木君と故郷へ向かった。鈴木君の故郷は釧路である。途中砂川駅で下車し、私の実家に立ち寄り、父とも話しをして一泊してもらった。次の日横浜の郵船会社で再会することを約束して釧路に発って行った。

 十二月の始め、会社より言い渡された休暇も期限が来た。釧路の鈴木君と打ち合わせてあった列車で車中の人となり、横浜の郵船会社へ行き、出社の挨拶をした。山下町にある会社の寄宿舎に行き部屋を指定され乗船命令が出るまで会社へ歩いて出勤した。

29 永禄丸

戦火は拡大して京浜地区にも警戒警報が頻繁に発令されるようになり、夜は灯火管制で大都会も暗闇。静かな中に省線電車の発車のときにうなるモーターの音、電車のレールの音が時たま聞こえる。街を歩く人達も何を考えているのか皆、無言。我が家へ急ぐのか、何処ともなく闇に消えていく。その頃のラジオは戦時色で歌も主に軍歌。いつも「撃ちてし止満」「勝利の日まで」という様に国民を奮起させようとする番組ばかり。日本陸海軍の輝かしい戦果を報じているが、敵はサイパンに上陸。フィリピン、日本本土へと狙っている。時々私も何だかおかしいなと思うようになってきた。

 かつて戦前は海運国日本と呼ばれるように、世界の港に必ずと言っていいほど日本の商船が停泊していた。我が会社郵船もそのなかの一つで、煙突の白地に二本の赤が一周しているマークがその威揚を誇っていた。しかし今はそのような船舶は見当たらず、世界一周航路の客船新田丸、龍田丸などは海軍に徴用され航空母艦に、または浅香丸のように戦艦に改造されたりした。さらには氷川丸は病院戦に、などというように優秀な船は海軍に徴用された。商船は戦時標準型と言って七千トン型、五千トン型と大型船は三種類からなっている。一か所の造船所で組み立てる、という国の命で船首、船中、船尾、機関等分担して製造し、日夜国民総動員で働き進水したものだ。

 山下町の寄宿舎に入って一週間くらいのことであった。私はその七千トン型の戦時標準船の永禄丸に乗船命令をもらった。寄宿舎に帰り身仕度をして東京芝浦桟橋に停泊中の永禄丸に乗船。パーサーに乗船命令書を提出し、手続を終えて上司、同僚に挨拶をして永禄丸の三等火夫としての乗務員となった。この船は当時、国が運航する船舶運営会所属であった。

 乗船して翌々日、室蘭に向け出発した。十二月の中頃であった。この船は馬力も小さく、時速八ノットが精一杯。嵐にあうと同じところにいる様で少しも前に進まない。こういう船なので室蘭まで四、五日かかったと思う。

 昭和二十年に入ると日本本土は東京と言わず大阪、名古屋等各地で米軍のB29による空襲が激しく、また太平洋も米軍に制海権を奪われた。日本の商船が南方へ物資を運ぶのも危ぶまれ、まして護衛する軍艦もなかった。永禄丸も室蘭ー東京川崎の間を航海する石炭輸送に護衛艦(といっても民間捕鯨船)を徴用し、武装したキャッチャーボートである。『太平洋は波高し。米軍はサイパンを占領し、フィリピンに上陸』と伝えるニュースが航海している永禄丸のラジオからも流れてくる。いつもの事ながら戦果の発表をする大本営は「我が方の損害軽微なり」である。

私は昭和十八年の秋以降、我が軍が苦戦している事や興津丸が撃沈されたことなどから考えてみて、闘い我が利あらず不安な日々であった。しかし、日本の指導者が「最後は日本の勝利」「聖戦を勝ち抜こう」「撃ちて止とまん」「ほしがりません勝つまでは」その他いろいろの文句で日本は勝利すると言う。報道を信じ、私も祖国日本の勝利を夢見、海上輸送に命をかけて業務に服したものだ。

 東京ー室蘭の石炭輸送もいろいろな事情があってピストン輸送のはずが月一、二回がやっとという。その事情は主に敵機動部隊が津軽海峡を目指しているとか。また敵潜水艦が金華山沖に出没したとの軍からの情報があり、そのせいか、港に何日も停泊しているときが多かった。

 時は流れ、昭和二十年三月二日の朝、永禄丸は川崎の発電所で使う石炭を満載して室蘭港を出航した。途中しけにもあい、ボイラーに石炭を焚いていても船底の仕事、海面下である。敵の魚雷でも命中すればひとたまりもない。船の側板も戦時標準型では二◯ミリ位で、戦前進水した船の半分くらいではなかったかと思う。その側板を破って魚雷が飛び込んでくるのが目に浮かぶ。そんなオロオロとした不安の中、どうにか無事川崎に入港。そして桟橋に接岸し、夜通し荷下ろし作業。九日朝まで荷下ろしはかかった。

30 東京大空襲

永禄丸は次の航海まで船体の軽い修理もあったようで、横浜の高島桟橋にシフトした。(注)[この高島桟橋は現在はありません。旧三菱横浜造船所で1989年横浜博覧会が行われ、その後取り壊され大きなビルが建っている。]

 昼ころにはシフトも終わり、乗組員の休養という船長の達示があった。
私は船長に願い出て十日の正午に下船するという許可をもらい、北千住のキクノ姉さんの所に遊びに行った。姉は笑顔で向かえてくれ、いまだ4才であった信子も『海軍のおじちゃん』と言って喜んでくれた。
食料がなくなってきた時代ではあるが、北千住の食堂で夕方よりお粥を売るというので姉は鍋をもって出かけ、並んでやっとのことで買えたと言って私に食べさせてくれた。

 いろいろと積もる話しをしていると、夜も更けてきた。燈火管制で電灯もわずか下を見えるくらいに暗くした中で「延ちゃん、休もうか」と言って布団を並べて敷いてくれた。
信子を間にはさんで今までの事、ふるさと砂川の話しなどしている時だった。かけていたラジオが中断して『東部軍管区情報。東部軍管区情報。マリアナ地区を発進した敵B29三百機は房総半島に向きつつあり!』という情報をながしている。と、同時に警戒警報のサイレンが燈火体制下の東京の街に響き渡る。姉は「空襲になったら大家の小久保さんの防空壕に入りましょう。」と言ってくれている。そのうちまたラジオで『房総半島に向かって北上してきたB29三百機は房総半島近海で旋回し南方洋上に遁走しつつあり』という情報が流れた。このような情報が二、三度繰り返された。警戒警報中である。姉は日本の守備が固く、アメリカ軍は恐ろしくて本土に来ることが出来ないのだね」と話していた。

 そんな中、やがて真夜中の十二時がやってきた。北千住近郊が一大音響と共に地面が地震のように揺れた感じと共に稲光りかと思わせる光りが目の前に映し出された。

と同時にかつて戦場で聞いた敵機の爆音。姉は信子を抱きかかえ「延ちゃん、防空壕へ!」と叫んでいる。
警戒警報の時、衣服を着けたまま寝ていたので姉から渡されていた防空頭巾をかぶり、外に出た。空襲警報のサイレンがこの時点で鳴っている。外は昼間のように明るい。防空壕へ行く少しの間、空を見上げると米軍機が上空一面を我がもの顔で飛んでいる。落下さんの付いている照明弾が次々と放たれ、その間に焼葦弾が落とされている。浅草方面であろうか、もう火の海である。パチパチと焼ける音。火の子が空高く舞い上がっている。日本軍は何をしているのだろう。米軍機は次から次と東京上空に入り、大都会を焼き尽くした。

 夜も白々と明ける頃、米軍機の影もなくなり四、五時間も続いた空襲も終わりに近づいた。これが今も語り継がれている三月十日の東京大空襲である。空襲警報が解除になったのは夜が明け始めたころだった。

 姉といっしょに家へ戻った。未だ上野浅草方面は煙が上がっている。姉が作ってくれた食事を済ますと、私は横浜高島桟橋に居る永禄丸に戻らなくてはならない。省線電車や私鉄電車は空襲のため路線も破壊され不通だという情報。隅田川を境に南千住は全滅。運よく北千住は爆撃は免れた。どうやって横浜まで行こうか?連絡しようにも今のように電話は発達していない。姉は方々に走り回って聞いてきてくれた。浅草から渋谷までの地下鉄と渋谷から東横線が動いているらしい。

「それでは姉さん、どうもありがとう。さようなら。」と姉にいとまを告げて家を出た。
 浅草雷門の地下鉄の駅まで歩いて行くことにした。

途中隅田川を渡った頃、まだくすぶっている煙の中を歩きながら見る光景はさながら地獄そのものであった。焼けただれた死骸が転々としている。

 かつて関東大震災の時、浅草の堀(注、今は埋め立てられ影、形ともない)へ逃げた人は助かったと言われていた。そのためか、大火災の熱さを避けるためなのか、布団ををかぶって逃げたのだろう、浅草の堀の中に布団と共に数限りない人が息絶えていた。私は今、あまりの惨さにうまく書き表すことができない。

 地下鉄に乗る人達が雷門の駅から隅田川の橋の上まで並んで待っている。目の前は松屋デパート。このデパートの二階部分は東武電車が発着するホームである。デパートを出て高架になっている下で何やら燃えている。上を見ればデパートの四、五階の窓あたりから勢いよく火が噴き出しているではないか。並んで電車を待っている人々は皆黒く汚れた顔で髪はボサボサ。皆何を考え、思っているのだろうか。無言である。私はこんなになっても戦争には勝つと思っていた。

31 空襲

どうにかこうにか電車に乗って夕方、永禄丸に無事乗船できた。その後も毎日のように米軍機の空襲は続いた。

 船に帰ってから四、五日後の夜、京浜地区にまた空襲警報のサイレンが鳴り響いた。船室にいても米軍機B29の爆音が聞こえてくる。デッキに出てみると上空にはB29が日本をあざ笑うかのように爆撃機の両翼に航空灯を着け堂々と飛んでいる。

見ているうちに川崎の重工業地帯上空で爆弾を次から次へと投下している。
桟橋に繋留されている永禄丸は爆弾が地上で搾裂するとき、船は上下に振動する。火の手は上がらぬ。破壊爆弾であろう。私は上司と共にブルブルと震えながら、どうして日本のゼロ戦は飛び立たないのだろうとやきもきしていながら、なすがままの米軍機を見上げていた。
横須賀基地のあたりから日本軍の高射砲が時々パンパンと上がる音がした。現在の打ち上げ花火のほうがはるかに心暖まるような気がするが・・

そのうち日本の戦闘機が三、四機ばかり、何処の基地を飛び立ったのか分からないが現われた。あまり聞きなれない爆音だ。零式戦闘機とは違う。
後で聞いた話だが日本軍が新たに開発した『雷電』とか言う戦闘機である。
誰からともなく聞いた話しだが事実だかどうかは私には判断できない。
その日本軍の戦闘機が米軍機B29と空中戦である。B29の速度は遅い。
日本の戦闘機はものすごく速度は速いが大きさはB29と比べたら蝿のように小さく、その機首より米軍機に機銃攻撃。日本の鋭光弾は黄色で糸を引くようにB29の燃料タンクを狙っているのだろう、米軍機も負けじと応戦。鋭光弾はたまにピンク色が出ている。空中戦である。見ているうちに米軍機はボッと火を噴き高度が下がってくる。
「アッ、撃墜された。」一緒に見ていた上司も「さすが日本航空隊だ。」と喜んでいた。私も「アッ、また撃墜だ。」と七、八機が火を噴き高度を下げ落ちてくるが、火を噴きながら旋回して横須賀の燃料基地の燃料タンク目がけて突っ込む。または工業地帯へ落下する。東京湾の海のなかに落ちたのは二機ぐらいだったと記憶している。

私が見た内の一機は空中分解して落下していった。この時私は思った。日本人には大和魂というのがあり、昔の教科書にも「キクチコヘイは死んでもラッパを口から放しませんでした」という教育を受けていた。これは日本だけのものと思っていたが、この時始めてアメリカにもアメリカ魂というものがあり、最後まで敵に損害を与えるという精神は敵ながら感心したものだった。

 高島桟橋を離岸して再び室蘭港に着き、石炭を積み込んで出航を待ったが出航命令がでない。米軍は沖縄上陸を目指し、また硫黄島上陸と戦火は日本本土へと近づいている。日本近海には米機動部隊が東京湾近海に出動している。そのような情報が飛び交っており出航できないでいるのだろう。

 そのうち石炭の荷上港が岩手県釜石港に変更という連絡が入り、釜石に向けて出航したのが六月も中旬頃であった。
私も永禄丸が錨を上げて港の防波堤を出たら、死ぬ覚悟でボイラーに石炭を投じ、タービンエンジンの音を聞きながら無事目的港に入港することを念じながら航海したものだ。

 永禄丸は室蘭〜釜石間の石炭輸送専門になった。夜間の航行は危険のため、八戸港で一夜を明かし、明るくなって室蘭往路は釜石へと向かった。

何日目であったか、この航海が釜石へ石炭を輸送したのが最後になった八月の始めごろだった。釜石に入港して二日目の朝、石炭の荷下ろし中、警戒警報のサイレンが鳴り作業員達は陸上に避難した。避難が終わるか終わらないうちに空襲警報のサイレンが鳴り出した。永禄丸は岸壁を離れ、港の陸上近くにシフトし始めた。この釜石港は袋の様な地形をした港で、太平洋から見ると真正面にこの桟橋が見え、製鉄所の煙突も見える。永禄丸は山のほうに転錨(シフト)すると洋上から見えなくなるので、そこに錨を下ろすことにしたのだ。岸壁を離れ、船の方向を変えると太平洋が一望できる。
水平線前方に米軍機動部隊の戦艦が大小二十数隻見えた。輪になって白波を立てながらぐるぐると回っている。船首をこちらに向ければ前の主砲が半分回り、後ろを向けば後方の主砲で、という様にこの釜石の重工業地区は艦砲射撃である。私は初め空襲警報が鳴ったのに敵機は見えずドーン、ドーンという爆弾の音だけが聞こえ、いったい何かなと思ったが、この艦隊を見てから身体がぶるぶると震え出した。ヒューンという音がしたかと思うと工業地帯で窄裂。また音がしたら海上で十メートルもあろうか水柱が立つ。またヒューンと音、制作所の煙突に命中。五本ならんで立っていた煙突のうち三本が崩れ落ちた。

 この艦砲射撃は朝の七時から午後二時近くまで続いた。その間、胸はドキドキ、まったく生きた心地はしなかった。その翌日も船は転錨したままで戦況を見守るだけである。昼ころ、また空襲警報のサイレンが陸上で鳴っている。
船の指令から機動部隊から発進した艦載機の空襲だという。石川さんや同僚とデッキに出て見ると蜂のような米軍機の大群が上空にやってきた。
日本軍の高射砲隊の撃つ音はたまに聞こえるが、上空より撃つ米軍機からの機銃射撃が永禄丸のデッキに雨あられと降ってくる。石川さんや同僚とともに「甲板にいては危ない。船底のほうがよい」とだれ言う事なく機関室へ、そしてシャフトトンネル(機関の推進力をプロペラに伝える軸室)へ入り、狭いので背中を壁に付け避難した。

間もなくガーンという大きな音がして船が上下に揺れた。と同時に壁に当たっていた背中の鉄板が暖かく感じられ、そのまま押されて前にのめった。避難した人はなにも言わず静かになるのを待った。

どのくらい時間が経ったのだろう。上甲板に出て見ると上空には敵機の姿は見えない。水夫長が「船尾をやられた」と言う。私たちがシャフトトンネルで押し出された所に艦載機が落下した爆弾が命中したのだ。幸いにも小さな爆弾だった。船尾は船の構造上、中心に向かって細くなっているため、外板に畳四枚程の穴があいた程度で(このあたりは鉄板が二重になっている)進水を免れた。

 二、三日がたって永禄丸は穴はあいているが少しの航海なら出来る、ということで残りの石炭を積んで室蘭に向けて出航した。

釜石に停泊中いろいろな事が報道された。広島に原始爆弾が投下された。

室蘭も米機動部隊の艦報射撃があった。そして毎日のように艦載機の空襲。永禄丸にも海軍の兵士が乗っており、二十五センチ機関砲二基が搭載されているが、この機関砲の弾丸は一日百発打ったら打ち止め、明日の打つ弾がなくなるというものだった。蜂のように飛来する米軍機、めくらめっぽうに撃ってもまぐれ当たりする様なありさま。当時、私をはじめ皆はそれでも戦争には負けるとは思ってはいなかったが、勝てるのかなという思いはしていたようだ。

 釜石を出航したのは大体8月の12日ころではなかっただろうか。朝出て全速力で八戸港に着き、一泊して13日朝、室蘭に夕方無事入港。その間の情報にソ連が不可侵条約を破棄して満州および樺太の国境を超え、日本へ攻めてきたということが話題になった。同盟国のドイツ、イタリアも連合国に降伏した。日本一国が連合国を相手にしても・・・と乗組員は私を含め、もう日本は戦争に勝てないのではと思いはじめた。でも軍部は負けるとは言わず本土決戦を叫んでいる。先輩のある人は「戦争に負けたら、男は『キン』を抜かれるそうだ。」という。これは困ったことになった。でも日本男子皆『キン』を抜かれるのなら仕方がないという気持ちになった。

 14日は室蘭港で休息して、釜石で被爆した船尾の修理のため、室蘭のドック入りを待っていた。

32 そして終戦

明けて8月15日、重苦しい夜も明け朝からよい天気だった。

午前11時、修理のためドックに入った。11時半扉を閉め、ドック内の水抜きが始まった。

そのころ船長から正午に重大放送があるから聞くように、と乗組員全員に通達された。ドックの水抜きは途中で中止されていた。

 やがて正午。船のラジオは雑音が入って聞きずらかったが、天皇陛下の玉音が聞こえてきた。

あの有名な終戦の詔書である。『耐え難きを耐え、忍び難きを忍び』のところまで来ると乗組員全員の目は赤く腫れ上がり、そして光るものが見えた。放送が終わって「戦争に負けた。」「もう戦争は終わった。」などいろいろな言葉が飛び交っていた。。私も負けたという事は口惜しくて涙が出た。勝つことに夢を抱いて、命をかけて戦場を駆け巡ってきたのはいったい何だったのだろう。

 様々な想いの中、今夜から灯火管制はしなくてもよいという達示。口惜しさの反面、ああよかったと言うのが本音ではなかっただろうか。

その後船の修理は三、四日中断したものの修理も終わり港に停泊。この先どうなるものか?

 何日かしてマッカーサー元帥が日本進駐し、東京に指令部が置かれた。日本はその指令部下に入り、日本の船舶の航行禁止、ついに連合軍の日本占領になった。細かいことは歴史としておわかりのこととして省略して話しを進めたい。

 日本船の航行が許可されたのは、連合軍の日本進駐が大体終わったその年の11月下旬頃であった。石炭を積んで川崎港へとの指令。船体に「E」の文字を入れ三角の航行許可旗(上半分青、下半分は茶色かかった赤)を主マストに船首より見て左側に上げて出航した。

もう魚雷攻撃も心配しなく航海を続けられる。何日目かに東京湾入り口にさしかかった。船の速度は落とされ「slow」の合図がブリッジより来た。もう入港かと思いデッキに出て見ると、まだ三浦半島がやっと見える東京湾の入り口。これから川崎港まで普通でも三時間はかかる。見ると東京湾は連合国、主にアメリカの軍艦がびっしりと入港しているではないか。その間を縫うように永禄丸は進んだ。デッキに立って米軍艦を見ると、どの軍艦もこれみよがしにレーダーが回転している。負ける前の日本の軍艦には、ぐるぐると回るレーダーはなかったのではなかろうか?まだアメリカにはこんな軍艦があるのだということであろう。そういえば日本の軍艦は虫眼鏡でも見なければならないほど小さく、年よりの『ナニ』と同じく下にダラリと下げ、(指令部の命令であろう、かつては主砲は空を向けて軍艦マーチよろしく勇ましかったが・・・)何と情けない姿であろう。

33 引き揚げ船

川崎港に入り石炭を下ろして、次の航行待つこと何日であっただろうか。年も明けて昭和21年の春の2月頃、永禄丸は長崎に回航し、引揚げ船になるので引き揚げ者を乗せるため改造せよ、との指令部からの命令が日本政府に出されたとのこと。

長崎に回航して改造工事に二か月間ほどかかった。

5月に浦賀港から、中国人二十名ほど台湾の台北へ、米軍のMP三十名も乗り組んで乗組員の安全を保持してくれた。その後私は、各地で敗戦を向かえた何万人の同胞を日本へ運んだ。もちろん私一人ではない。石川さんも居た。野村君、鈴木君、七十名近く居た乗組員全員だが、サイゴン、バンコク、満州のコロ島という所。その他たくさんの港から日本の各港、鹿児島港、佐世保港、浦賀港等などへ帰港したものだ。この戦争に敗れ故国の山河をどのように感じられたのであろうか。「国敗れて山河あり。」の名文句があるように、私の兄、佐次雄も永禄丸より一隻後にバンコクを出航した遠州丸で帰ったそうであった。このバンコクから帰った兵士達が、敗戦後日本へ帰国の兵士のうちで一番みじめな姿ではなかっただろうか。ビルマ戦線であったとか聞いている。また、満州からソ連兵に追われ、民間人は着の身着のままで帰国し、兵隊はソ連軍に連れられシベリアへ。また朝鮮の仁川港からの引き揚げでは、日本に帰すといって夜通し歩かされ、そして持ち物を奪われた事など涙ながらに話してくれた人々がいた。今思えばどうしてこんなつらい戦争をしたのかと思う。

 だいたい引き揚げも終わりに近づいた。そして佐次雄兄さんも無事帰国できたという知らせを聞いた。

かつて世界の海で活躍し、世界一周航路を夢見ていた私も敗戦という名のもとに打ち砕かれ、思い切って日本郵船を退社し故郷砂川に帰った。その後はお読み下さる皆様がご承知のように実家の手伝いをしていたが、上砂川の新聞店を譲るという人がいたので、随分お世話になった砂川の家の隣の長瀬様の三女、豊子を妻として新聞店の仕事をした。しかし、譲るといったのは真っ赤なうそで駄目になった。

妻の父が世話をしてくれた砂川農協のボイラーマンになったが、三年後に農協赤字のため人員整理。私は対象ではなかったが退職した。何をやっても駄目。船員時代がどうしても忘れられず、そうかといって外航舩は許されなかった。

ある日、青函連絡船でも船は船だと思い、当時国鉄青函局に履歴書を出したところ、折り返し採用するから函館に来るようにとのハガキを受け取った。義父にも相談の上、函館に行き採用され国鉄に入った。そして苦しかった生活も上向きになり、現在に至ったのである。

 その後の暮らしは三人の子供にも恵まれ、幸福な毎日を送っている。

機会があれば引き続き自分史とでもいおうか、書いて見たいと思っている。