もう一度あの風を‥
Kawasakiのシートから降りて十数年。一生バイクに乗り続けたいと思っていたあの頃。
そうはいかないことは知っている。
でも、いつかはまた、あの風を感じたい。
・・・・ってなことで、バイクにまた乗りたいオヤジのひとりごとであります。
最近は大型免許も取りやすくなった事やハーレーブームもあって、オートバイにカムバックするオヤジたちが増えてきていると聞いています。
私もできたらカムバックしたく、このページを作りました。しばらくは昔話、武勇伝ばかりでつまらないかもしれませんが、よろしくい付き合いください。
RZ250改造日記
2009年10月9日金曜日
もう15年以上も前の事ですが、RZ250の改造日誌みたいなものがあったのでご紹介します。
RZ250は5台目のバイク。言わずと知れた2ストの名車、ノーマルでも結構ピーキーなエンジンですが、350ccのエンジンを乗せ変え、さらにポート研磨、ヘッド研磨、タイミングを変えるなどしてさらにチューンアップ。バックステップやフットレスト、ラジエターカバーなどすべて自作するなどして極力お金をかけない改造を続けました。
1982年も明けて間もなくの頃,一人の友達から、7、80キロ離れた、とある町のバイク屋にRZ350の事故車があるという情報が入った。
以前から350CCのエンジンは喉から手が出るくらい欲しくてたまらなかったので、この知らせにはすぐ飛びついてしまった。 さっそく電話をして聞いてみた。 バイク屋のほうも350CCのエンジンを250CCの単車に乗せ換えると違法になるとしぶっていたが、とりあえず58000円で取り引きが決まった。さっそく国分を案内人に任命し、雪の中ダットサントラックをその町まで走らせた。そのバイク屋の店先にその350のエンジンとキャブレターがごろんと無造作に置かれてあった。エンジン代が58000円でキャブは別に5000円だという。お金は余分には持ってきていないので後で払うからと言って,トラックにその30㎏ほどある全属の塊を乗せて帰ってきた。
とうとう350CCのエンジンが手に入った。これから俺の「改造」の時代が始まった。去年はRZツーリング時代、今年はRZチューニング時代、というわけだ!
しばらくの間は車庫が寒くて作業がうまくはかどらないという理由でご一月頃までエンジン乗せ換えは見合わせていた。
作業開始(1982.3/14 AM11)
まずRZ250のエンジンを下ろすことから始める。以前からタンク、チャンバー、サイドカバー、バッテリーは取り外してあった。
①ラジエターの液抜きをする。
②ラジエターホースの取り外し。
③オイルポンプワイヤーを外す。
④オイルパイプを外す。
⑤左側のクランクカバーを外すのに少々手間がかかった。(ねじがかたくてとれない)
⑥フロントスプロケットからチェーンを外す。
⑦キャブレターのスロットルワイヤーを外す。
⑧エンジンマウントの二本のボルトを取る。
⑨タコメーターのケープルを外す。
⑩電気のコネクターを取る。
このようにしてエンジンを下ろし、350のエンジンを取り付けた。この日はこれで終了。
明日に後の作業を残す。
(3/15)昨目残したスロットルワイヤーとオイルポンプワイヤーを取り付けた。クーラントはまだ入れていない。
(3/18)クーラントを入れ、へッドのエア抜きをする。このあとマフラーを取り付けようとしたが、エキパイのガスケットがエンジンに付いていなかった。250と350ではこれの大きさが異なっていたが無理に合わせて使用した。
(3/19)バッテリーを充電。
(3/22 PM10;30)キャブのガソリンホースを付け、バッテリーを付ける。そのあとタンク、シート、サイドカバーを取り付けた。キーを差し込み、一応電気系統のテストを行ない、異常のないことを碓かめる。チョークを引き、キックペダルに足を乗せる。緊張の一瞬。二、三回の後、パランパランと甲高い音が俺の鼓膜を振るわせた。
「やったぞ!」エンジンは何事もなく順調なのだがすこしアイドリングが高いのでアイドルスクリューで調節する。
その時ちょうど車庫に友人の加藤が来て、さっそく試乗してみることになった。ダットサントラックラに車体を乗せて真夜中の国道を走る。家の前はまだ雪が残っているため、完全に乾いているところまで連んでいく。星置の道幅の広くなるところにダットラを止め、そろりそろりと降ろしてみる。エンジンをかけてみたがやはりまだアイドルが高い。アクセルを回すとそのまま回転が戻らない。キャプ側のワイヤーアジャストを調節してみてなんとか直った。クラッチを握り、左足でチェンジペダルをちょんと踏み込み、アクセルを回しながらそっとクラッチをはなす。RZはゆっくりと走り始めた。低速のトルクも十分あるように感じられたし非常に走りやすかった。しかし、慣れていないせいもあって7000rpmまではまだ怖くて回すことができなかった。冬の間何も乗っていなかったから、余計そう感じたのかもしれない。
そのあと、走ってみていろいろな症状が現われてきた。後輪の回転がよくないとか・・・
6000rpmからの振動が激しいとか・・・
(北海道)伝説の雷電温泉ツーリング
〜虹の根っこを見た!〜
1981年11月2日月曜日
RZ250 XS400 Z400FX 人数4人
1981年の11月。バイク仲間の4人が、今年最後のツーリングに行こう!行き先はどこがいいかと頭をひねっていた。北海道はこの時期,雪も降りそうなくらいの寒さ。北に行くことはまずパスして、南、それも山道は凍結、圧雪の恐れがあるのでこれもパス。結局、海岸沿いに走って、まだ行ったことのない雷電海岸を走ることに決定した。
1981年11月2日月曜日(くもり)
朝、加藤宅(当時たまり場になっていた)に到着。数分して棚瀬と国分が集合。あとで聞いた話だが、加藤が出発直前まで行くか行かないかを決めかねていたらしく、結局、国分の後ろに乗って行くことにした。一旦銭函の自宅に4人集まってちょうど昼ころ出発した。雷電までは100kmくらいなのでそう急ぐ必要はなかった。出発して数分で、レストランに入って昼食。小樽を通って余市、そして激寒の稲穂峠。寄り道もせず、ただひたすら岩内あたりまで行く。途中、喫茶店でコーヒーを一杯。雷電に着いたのはタ方4時ころだったと思う。
地図に雷電温泉と赤く書いてあったので、 けっこう大きな温泉街かと期待していたが、 意外に小さく,旅館が数軒見える程度だった。泊まるところを探そうと、煙草を買いに入った店で聞いてみた。
「この辺で旅館といったらどの辺にありますか?」
「こっちをまっつぐいったら、ホテルがあるがの〜。あっ、裏にも二つ三つあるだよ。 なんならうちにとまればいいべさ。温泉は裏行けば入れる。金かかるけんど。」
「・・・あっ、そうっすか・・・」
「おい、どうする。」
2組に別れてそれぞれ適当の旅館を当たってみることにした。俺と棚瀬が、少し上にあがったところにある旅館を尋ねてみた。静かなその旅館の前にけたたましい2台 のオートバイが近付いてくると、奥からそろそろと人が出てきた。
「一泊したいんですけど・・・ここおいくら ですか?」
「エ〜っと、2食付きで一人6000円だな。」
「素泊りだといくらですか?」
「泊るだけかいっ!え〜っと4000円かなぁ。」
どうも感じがいまいち暗そうな旅館。特別安いわけでもないのでここはパス。下に降りて国道でもう一組を待っていた。国分,加籐組みがやってきた。二人ともおもしろくなさそうな顔をしている。聞いてみると、帰れ,帰れと塩をかけられたという。結局、旅館はやめて,もう少し先に行った大きめのホテルに泊ることにした。
いちばん普通の人の格好をしている加藤が我々を代表してフロントに交渉に行った。あとの三人は塩をかけられてはたまらんと外で結果を待っていた。
「どうだった?」
「いくらだって?」
「普通は1万円なんだけどシーズンオフだか ら、6干円でいいんだってヨ。1万円の部屋だって。」
「よし、決まりだ。単車はここに置いていい のか?」
「うん、横に寄せといてくれって。」
というわけで窓から雷電の梅岸の見える部屋に案内された。ここで俺がお茶を入れに来た中居さんに「ここの温泉は何に効くのデス カ・・?」と聞いたことであとあと話題になったことは言うまでもない。事実,冬のツーリングで持病の左手が痛くて、早く温泉に漬かりたかった。そのうちに日も暮れて、4人は温泉に入った。先に上がった棚瀬が慌てた様子で引き返してきた。
「大変なことになっています!」
「何がだ?」
「夕食が,夕食が夕食にした。この夕食が大変です!」
その言葉通り,御前を見て驚いた。これで一泊6干円かとも思わせる代物だった。あの大喰いの国分でさえ食べきれない量。イカが取れたてらしくとても美味だった。写真がないのが残念だが。 食後はみんなでマージャンを興じた。覚えたての国分に加藤が「おまえなんか、 ただパイを並べているだけでいいんだ!」と 言って「七万」を捨てると「ちょっとまった。そ れ・・・できあがり!」あっさり倍満。
夜は11時に床に入り、みんな疲れたとみえてぐっすりと眠った。棚瀬は早くに寝 たが,大きな声の寝言で皆を混乱させた。 『だからあいつに貸すなって言ったのに!』 ・・・何を?
1981年11月3日火曜日(雨)
一夜明けると外は雨だった。なんとなく憂うつな朝ではあったが、朝食からイカ刺がやってきたので、皆も少しは気も晴れた様子。
10時にチェックアウト。ただこのまま、まっすぐ帰るのも何だからもう少し海岸を南に走ることにした。
激しく降り続ける雨の下、どこへ行くあてもなく、皆無言で走り続ける。雨は降ったり止んだり。そのうち風も強くなってきた。俺のRZは軽いので横風なんか吹こうものなら、ななめになって走り続けなければならないほどだった。寿都(すっつ)に着いたころはものすごい雨に変っていた。途中ところどころのバス停小屋に入って一服しながら進んで行った。雨が小雨になると再び走り出す。
ふと、前方の空を見ると虹が見え隠れしていた。朝から俺たちの行くところどころにその美しい姿を現わしていた。
寿都の先,弁慶岬にたどり着いたころにその虹の根元を見つけた。波打ち際に斜になってにょっきりとそびえたっているありさまは一種異様な趣を感じさせていた。
4人とももうこれ以上進んで行っても何もないと判断し、弁慶岬の灯台で記念撮影した後、引き返すことにした。
ツーリングといっても片道100㎞前後の中距離だからこれといって記す出来事は少ないけれど、北海道の冷たい雨にはみんなに辛い想い出を残した。
小樽の街に入ってからは雨は最高潮に達した。そのせいなのか,俺のカッパは破れてしまった。
この、ツーリングを最後に1981年の走りは終了した。
このあとすぐに大雪になった。
My First Soro Long Touring 1
〜トンネルで今日ネル?
1980年9月17日水曜日
9月17日
無事仕事を終えると、寄り道もしないで自宅に帰った。
ツーリングに行くからといって4万円ほどの買いものをしてしまったのは少し無駄使いだったかなと少し反省しながら、前日からそろえてあった荷物を再度チェックした。
RZにツーリングバックを取付け、家の前でキーを回し、キック一発。夜の7時だ。オヤジとオフクロの見送りをあとにして出発。
苫小牧へとR36を南下した。ツーリングバックに入れたカーステレオをヘッドホンで聴きながら東京に住んでいる友人のアパートへと、ひた走るのだった。
苦小牧のフェリー乗り場に午後10時半頃到着。乗船手続きを終えて待合室で休む。9月の北海道はさすがに寒い。冷えた身体がやっと暖まったころ船に乗った。オートバイは一番先に入れてくれた。単車で乗船するのはHONDAのCM125に乗ったおっさんが一人だけだった。
客層といえば、シーズンオフということもあって、長距離トラックの運ちゃんとおじいちゃん、おばあちゃん、そして季節はずれの一人旅、というかおぶれだった。
出航は深夜零時だったので、地図で明日の目的地を確認して横になった。興奮のあまりなかなか寝付かれなかった。
9月18日
朝、まぶしいくらいの青空が船室の窓を染めていた。あと数十分で八戸港へ着岸するらしい。デッキへ、すがすがしい空気を吸いに出ると、素晴しく晴れ上がった空が俺を迎えてくれた。
フェリーから降りる。とうとうオートバイで本州に上陸したんだ、という感激が襲ってきた。
朝9時半に八戸を出発してR45を再び南下していく。陸中海岸の美しいこときわまりない。道路はすいているし、天気はいいし、おまけに風も気持ちがいい。それにヘルメットの中からさわやかなミュージックが流れている。・・・
恐らく初めてバイクに乗った頃以来の感激だろう。
30㎞ほど走って、途中の道路脇で食事、といっても出発する前に作ってもらった弁当(おにぎりとスパゲティ)を食べた。海を見ながら・・・誰もいない海を・・見ながら。
そろそろ単車は久慈市にさしかかろうとしていた。
ふとバックミラーをのぞいてみると、さきほどからアメリカンバイクらしきものが一台後ろについてくるのが見える。すると、そのバイクは俺をかわして前に出たかとおもうと右手を水平に出して、俺のバイクを制したのだった。
何事かと思って左にRZをつけた。
会社のジャンパーにネクタイ、スラックス姿のその人は、バイクを降りてこちらに歩よって来た。
「あんら〜札幌から来たんかいー。」
「そうです。」
それからいろいろと世間話が始まった。親切に宮古へ行く道も教えてくれた。彼が本州に上陸して最初に会話をした人だった。
そのあとの目的地を宮古へとし、RZを走らせた。リアス式海岸の美しい海岸に出たかとおもえば山の中のワイディングロードへと・・・RZには走り応えのある道だった。宮古に着いたのはもう昼を少し越えたあたりだった。陸中海岸は本当に奇麗だった。シーズンオフでもあったせいか、どこもかしこもすいていた。オートバイでツーリングをしている人には今まで一人も会っていない。
仙台までまだ半分も来ていない。残念だがあまりゆっくりと見ていられない。すぐに走り出す。釜石を過ぎたあたりで夕食を道沿いのベンダーショップ(自販機が置いてある店。当時24時間営業のコンビニはなく、もっぱらツーリングではベンダーショップを利用していた。)でとった。すでに太陽は大きく西に傾いていた。
気仙沼でガソリンを入れた。30才くらいの女の人がガソリンを入れてくれた。
「どこ行くの?」
「東京。」
「帰るの?」
「札幌から来たんだ。」
「今ごろ東京に行くなんて珍しいわね。旅行?」
「友達に会いに行くんだ・・・そうだ、仙台まで何時間位かかりますか?」
「そうね、2時間・・3時間くらいかかるわね。」
「仙台で一泊したいんだけど、そうなると11時か12時だけど・・・」
「松島あたりで一泊すればいいんじゃないの。あそこなら温泉町だから、いっぱいホテルがあるから。」
そういった会話をしながらコーヒーを一杯御馳走になった。話をしているうちにその女の人はここのガソリンスタンドの店長という事がわかった。
気仙沼のガソリンスタンドをあとにして、俺はとりあえず松鳥(100㎞あまり)をめざしてアクセルを全開にした。
昼間の素暗しい景色とは一変して、味気のないアスファルトに引かれた白い線と、前方に時々映ヘッドライトを注視するだけだった。気仙沼からおおよそ80㎞ほど南下したところに石巻という街がある。その数㎞手前でふと夕食をまだとっていないことに気がついた。それほど気にもせずにひたすら走ったのだろうか。国道の右脇の「旭川ラーメン」という看板が目に入った。ここまで来て旭川ラーメンとはと思ったが、気仙沼からほとんど休みなく来たせいもあって、ここらで一休みだと思って店の前にRZを止めた。
「ごめんください。」
「いらっしゃい。」
「・・・みそ・・」
ちょうど十時の時報が鳴っていた。
店内は何となく暗い雰囲気が漂っていた。作っている人も客に背中を向け、何やらラーメンの上の「もやし」をぶつぶつ言いながらつまんでみたり、取ってみたり、それでも一生懸命に作っている様子がうかがえた。
「お、お、おまちっ。」
指がスープに漬かっていた。一口食べてやはり、うまくはなかった。のびたカップヌードルの麺みたいだった。
それでも残さず食べ終え、俺は500円置いて出て行った。
国道の方からオートバイの音が近付いてきた。ふと見るとCBX1000だった。その他にもCB750FZや400CCのバイクが数台、このラーメン屋の前に集結した。
何かのきっかけで話し始めた。純粋の東北弁なのでほとんど理解できない。なかに標準語を少し話せる人がいたので、その人が通訳代わりになってもらった。相手は地元の人達らしい。仲間同志の会話は残念ながら一つも理解することができなかった。
再び闇の中を疾走した。何時間走っただろうか。そろそろ疲れが見え始めた。松島に着いたのは、午後11時にはなっていたとおもう。いくら温泉町だとはいっても夜の11時にあいている旅館など一つも見つからない。一ケ所モーテルはあったが・・。
野宿の覚悟はしてきたので寝袋は持ってきてある。とりあえず、寝床を探すのに一苦労した。まず初めに候補に上がったのは公園のベンチだった。そこには、夜露をしのぐのに十分な屋根があった。
しかし、公園の真ん中だったために朝早く起きないと一目につき、恥しい思いをする。少しばかりためらいもあったが、意を決してベンチに座って荷物を降ろしていると、何やら茂みの中から怪しげな物音が間こえてきた。
何者かと音のする方に視線を向けると、その異様な光景に自分の目を疑った。
それは紛れもなく人間の形をしていた。その男は手になにかを持って一人で草を蹴り、掛け声を上げ、手で気合いを入れていた。
「アチョー!ハッ、ハッ、アリャー!ソレッ!」小林寺の真似事でもしているのか?。
別段酒に酔っている気配もない。その男はだんだんとこちらに近付いて来るではないか。俺は薄気味悪くなり、下ろした荷物をまとめすぐその場を離れた。
再度、一夜を駅かす場所を探す羽目になってしまった。30分ぐらいそのあたりをぐるぐると走っただろうか。もう疲れ果ててきてどこでもいいようになってきた。思い切って国道の横を走るサイクリングロードのトンネルの中にRZを入れた。
時計はすでに12時を回っていた。RZの横に寝袋を敷いて服は着たままで身体をその中へ半分ばかり入れ、明日の走るコースを地図で確認していた。しかし、なんて淋しいところなんだろう。眼前に続く暗黒の世界の向こうには、薄暗いぼんやりとしたトンネルの先が見える。ちょうどその時だった。後ろに人の気配を感じたのは・・・。俺は一瞬背筋にぞっとするものを憶えた。恐る、恐る振り返ってみるとコートを着た一人の男が音もなくそこに立っていた。俺と目を合わせるとにやっと笑って話しかけてきた。
「これかい?」その男は腕を頭に付けて枕を作る格好をして見せた。
「そ、そうっす・・・。」
「ふう〜ん。おやすみ。」
そう言って男はトンネルを出口に向かって歩いて行った。コツコツと闇の中をその音だけを残して・・・
よく見ると男は酔っ払っていたらしく、あっちふらふら、こっちふらふらを繰り返していた。その後すぐに寝袋に入って寝た。
明け方、まだ夜が開けて間もないころ、俺は一台の自転車の音で目が覚めた。(覚めたといってもぐっすりと眠れたわけでもない。虫が顔のあたりを散歩しているような気はするし、寝袋にくるまっている間に数人通り過ぎた様な気はするし、全く疲れはとれていない)その自転車は俺の前でブレーキをかけ、何やらつぶやいているのが聞こえた。
ちえっ。寝ているのか!」
俺は気がつかないふりをして小さくなっていた。自転車が通り過ぎた後、ぱっと飛び起きて荷物を片付け始めた。10分くらいしてさっきの自転車の男が現われた。
「おめざめかい?」
「はぁ・・・」
「おはよう!」
My First Soro Long Touring 2
〜雨の17時間
1980年9月19日金曜日
9月19日
国鉄松鳥駅で顔を洗い、仙台に向かって朝、7時ころ出発した。昨日とはうって変 わっての曇り空、少々寝不足もあってあまり 気分は乗らない。仙台で遅い朝食を駅地下で取った。駅のベンチで一人ぽつんと煙草をくわえていると、なぜか家出少年にでもなったような気分になってしまう。
仙台のライダー は街の中をスイスイと車をかわしていく。
東京の地図を駅前の本屋で手に入れ、10時過 ぎに仙台を出た。今日の6時までには友人の いる神奈川まで行かなければならない。あと9時間で東京を通過して、そこに行くのはちょっときついような気がしてならなかった。
東北自動車道路の標識が目に入った。俺は 迷わずその標識のある方へと進んで行った。 高速を120km/hくらいでクルージングして ゆく。カウリングのおかげで、たいした辛くはなかった。数合のバイクをバクミラーに追いやった。RZ乗っているという優越感がすっと頭の中を横切っていく。間もなく空から冷たい雨がちらつきはじめた。サービスエリア ごとに一休みをして、そのうちの一つで昼食を取った。150円の焼そばでおしまい…
RZ最高速に挑戦した。150km/h~155km/hいいとこだった。すると、あっさり後ろからコロナに抜かされてしまった。ガ チョ~ン!雨が激しくなってた。「かっぱ」 を着た。このかっぱを着てひとつ因ったこと がある。雨に濡れ、寒いし、疲れるものだか らサービスエリアで休もうとする。サービス エリアには、暖かいコーヒーがあり、無料休 憩所がある。俺はそこで休みたいのだが、雨 で濡れたかっぱで入っていくと、人々の視線が、かっぱに飛んでくる。かっぱが 乾くまで、その休憩室の一番はじで一人立ってコーヒーをすするんだ。かっぱを脱いでしまえぱ話しは早いのだが、それはめんどくさいの一言だった。福島、郡山を過ぎ、字都宮にさしかかった。まだ三時か四時だったので日光に寄ってみようと思いR119を北上した。雨は相変わ らず降り続けている。さすがに日光へ行く道は歴史があって、両側に大きな太い木がずらりとあって、少々風流な感がした。日光に着いたのは4時半頃。時間も あまりないので何処もゆっくりと見物できな かったのは残念だった。いろは坂をRZでワイ ディングしようと思ったのに・・・なんだか「思った」ばっかし。日光駅前でカレーライスを食べて、少しばかりのおみやげを買って・・・あっ、もう5時だっ・・・ 外も暗くなり始めた。雨は依然として降り続 いている。今度は有料道路を通って再び東北自動車道路へ。
宇都宮から岩槻までの宇都宮から岩槻までの道のりは全くたいへんなものだった。最悪の条件がすべてそろったようだった。雨は前にも増して激しくなったみたいだ。そして、寒い。北海道と変わらないような寒さだ。夜と雨のせいで視界は 悪いし、都心に近付くに連れて車の量が増え てきたようだ。高速道路の二車線がびっしり、車間距離はほんの数メートル。100km/ h以上で俺を追い越していく。生きて東京に 着くことができるのだろうか。佐野サービスエリアで一服。このサービスエリアは大きかった。上りと下りと別々にあって、広い休憩室、そこから眺める夜景も素晴らしいもの だった。冷たい手を、暖かいコーヒーが入っている紙コップで感覚を取り戻していると、 隣に座ったセールスマン風の27、8 歳の男の人が
「たいへんだねえ。寒いでしょう。もしかし たらそのプーツの中も雨でぐしょぐしょなん じやないの。」
「・・ええ・・・」
「何処から来たの?」
「札幌」
この入もライダーだった。Z750FXIIIを乗っ ているらしく、今は仕事で車を使っているらしい。ここでオートバイに乗っている人と話しができるのは少しからず力強かった。 これから行くところを話すとだいたいの道のりを教えてくれた。どうやって早く着い たとしても夜10時、11時にはなるらしい。 あと4、5時間はかかる。再び雨のハイウェイ を水しぶきを上げて駆けていく。もうあと間もなくで東北道の終点になろうとしている。不思議に元気が戻ってきた。岩槻に着いたのは 午後7時を大きく過ぎた頃だった。やった、 とうとう東京に着いた。しかし、目的地 である友人のアパートまではまだ100km以上はあるたろうか・・
とりあえず、東名高速に出れば道は開けてくるだろうと思ったのだが・・・ しかし、それは少々甘かった。東京の道は北海道とは違い,たいへんわかりづらい。東北自動車道路から降りたRZは 第一に大宮へとハンドルを向けた。 そして早速,大宮で迷った。ここから先は自分が何処を走っているのかわからない。東京という大きなジャングルで独り迷子に なってしまった。 雨がひどいものだから、地図も広げられない。雨がひどいものだから、歩いている人もいない、道を聞くこともできない。困った挙句,交番に入って道を聞いた。
「あ、あの〜、東名に出たいんですけど…」
「んっ、東名か? う〜ん,この道をまっすぐ行くとだなァ…。どっかに標識が出ているから…」
「どうも…」
標識などは見当たらなかった。 環7を走っているらしい。 後方から車の団体が、どっと押し寄せてきては、あっという間に通りすぎて行く。 恐ろしい状況だ。 いつの間にか豊島区に入ったらしい。 このまま行くと池袋で再度迷ってしまう可能性が大きい。本日中に目的地にたどり着くことができるのだろうか?
このまま単車を捨てて何処か暖かい部屋の中で、暖かい布団の中にはいってぐっすりと眠 りたい。心細い。今日はガソリンスタンドとサービスエリアと交番でちょっと口を開いたほか、誰とも話しをしていない。何時間道に迷っていただろうか。時計の長い針と短い針 はもうすでに重なり合おうとしていた。 へルメットの中のへッドホンからリリィの 『涙の第三京浜』が流れてきた。そのアップ テンポのリズムに合わせてアクセルを手前に 回転させていくと、前方の案内標識に「第三 京浜道路」の文字がへルメットのシールドを 通して目に入ってきた。
「やったぜィ、確か第三京浜の手前に東名に 入る道があるはずだ。きっとその標識を見落 としたのに違いない」 俺はすぐにU夕-ンして(Uターン禁止だっ たが。)どうにかして念願の東名高速道路を 走ることができた。雨は相変わらず飽きもせ ず降り続けている。東名を時速80kmあたりで クルージングする。広い車道だった。トラックがやたら多かった。
そろそろ体力も限界に近付いた。腰は痛いし、肩はこるし、寒さがそれらの要素を十 分満たしていることは、雨の中のライダーなら誰もが知っていることだった。「もう少し だ。頑張るんだぞ。」そう言い聞かせて俺は RZを操った。RZも黙ってオレの言うことをきいてくれた。
命のハンバーガー
このままでは走行不能になってしまうと判断し,横浜のサービスエ リアで一休みすることにした。どうして東京が こんなに寒いんだ!北海道のほうがもっと暖 かいぞ。 丸い椅子に腰をかけていると、ぷ~んといい 匂いがしてきた。ハンバーガーだった。走ることで頭が一杯だったので夕飯を口にしていないのに気がついた。重い足どりでカウンターへと向かった。
「ハ、ハ・・ハンバーガー・・ひ、ひと つ・・それから、あったかいコーヒーを一杯。」寒さで日が思うように回らない。 店の人はきょとんとして金縛りにでもあったかのように動かない。
まるで宇宙人でも見ているような目で見ている。ハンバーガーとコーヒーがカウンターに並べられると,それを取ろうとするのだが、手がかじかんでいて、うまく掴むことができない。両手でかぶりつくようなしぐさで、わっとばかりに取りあげた。売店の人はあとずざりをはじめた。椅子に座ってハンバーガーをむさぼるようにたいらげ、熱いコーヒーをすすると,ようやく少しばかり生き返った。
再びカウンターに向かい,
「す、すみまっせん。ダンボールか新聞紙、 ありませんか?」
「・・・・・・・・あっ、え-と・・・しん ぶん・・し・・な、ないなあ〜」
後ろの方から, 「そうかい、単車かい。たいへんだね、こん な雨降りに・・」
いつの間にか、回りに大勢の人だかりができた。見知らぬ人達に頑張れよと励ましてもらうと、孤独な過酷な旅が少しばかり和らいできた。カウンターの人も以前 にバイクに乗っていたことのある人で、ごみ袋に穴を一つあけて、それをかぶると雨をいくらかでも通さないからといって2,3枚くれた。
「入れ立ての熱いコーヒーだ。飲みな。寒い時は中から温めるのが一番」
何杯もおかわりを勧めてくれる。 小便が近くなることを気にしながらも勧められるままにコップを手にした。東海大学へ行く道を尋ねたら、親切にも地図までひっぱりだしてきて調べてくれた。 数十分休んでから再び雨のハイウェイをまたRZを走らせることになった。
感動の再会
9月19日は終わり,時計は午前2時をさそうとしていた。雨はいっこうに止まず、前より増して強くなってきたようだ。東名高速を厚木インターで降り、続けて有料道路を進んで行く。料金所で一旦一停止した。
「いくら?」
「・・・・」
「ねェ、いくらですか。」
「・・・・・」
「300円かい?。」
「よ、よくきたね。……あ、300円だよ。」
その料全所のおじさんは、ジーっと俺のほうを見ていた。 夜中の2時に、それも大雨の日にオートバイの後ろにいっぱい荷物を積んでいれば、何事かと思うのは当然だろう。おじさんに東海大学への道を簡単に教えてもらった。 とうとう友人Aのアパートが目の前にあるんだ。そう思うと不思議に今までの疲れが吹っ飛んでいった。そのAに地図を書いてもらっているので,道に迷うことはない。洪水のように流れている道を走るが,また同じところに来てしまう。ここでも迷ってしまった。友人の愛車を発見した。すかさずRZを止めて大声でAの名前を呼んだ。夜中,近所迷惑もそっちのけでクラクションも鳴らす。なんの応答もない。冷静に考えてみたら,駐車場とアパートは離れていることを聞いた覚えがあった。急いで書い てもらった地図を広げて行ってみた。アパー トに着くとAはすぐに出てきた。 「もう単車なんか乗りたくもない!」 と言ってアパートに入る。ずぶ濡れになった服を取り替えて、少し落ち着くと無償に腹が減ってきた。 セブンイレブンで食べ物を買ってきてもらった。そしてその寒く冷えきった体を熱い風呂で温め,積もる話しもせず布団に、そう暖かい布団に入って熟睡した。〈本日の走 行500km以上〉
My First Soro Long Touring 3
旧友との再会
1980年9月20日(土曜日)
9月20日
朝、目を覚ましてみるとちょっ体調がよろしくない。風邪をひいたらしい。
今日一日は単車には股がらないことにした。 また、その気にもならなかった。友人達の「共用車」であるという白いフォルクスワーゲンに同乗し、湘南海岸を青春ドラマみたいに走って、小田原に「かまぼこ」を買いにいった。9月にしては肌寒い1日で北海道と変わらない寒さだ。今日帰る予定であったが、風邪気味でもあるし、昨日の夜遅く来て,翌日に帰るのも慌ただしいということで,職場に連絡してもう1日休みをもらうことにした。
東京でそろった三人
職場に電話したついでに,東京に来ている友人「K」にも電話した。彼はこの年の春に郵政省に入り東京に来ているらしかっ た。(彼の家には頻繁に遊びにいっていたが、郵政の試験を受けたとか、東京に行くとかの話は一言も聞かなかった。 後日彼の母上から東京行ったよと聞いて腰が抜けた。)
夜の8時に青山学園の門の前で待ち合わせ。「A」と「I」の三人でワーゲンを都心に向けた。 どうにかして待ち合わせの場所に着くと,いるいる、おかしな男が一人、校門でぶらぶらしている。Kを拾って彼の寮に行った。 そのあと、来年行くつもりでいるデザイン学校を一見してみようと、渋谷を探し回る。地図を忘れてきたため、電話帳で調べたがよくわからない。交番のおまわりさんに聞いてみた。
「◯◯デザイン研究所は、どこですか?」
「えーと」
「・・・・・,わかんないなぁ。今見える範囲しかわかんないよ。電番号がわかるなら,明日電話かけて聞いてみれば。」
結局,自力で探し当て,みんなでAのアパートに向かった。その晩は高校時代のように3人枕を並べて寝た。Kは朝早くに電車で帰った。
My First Soro Long Touring 4
〜夜通し走って新潟へ〜
1980年9月21日(日曜日)
当初の予定通り,八戸からフェリーに乗って帰ると、時間とお金がかかるという結論が出たため,新潟からフェリーに乗ることにした。 まあ,同じ道を通らないので、少しは気分も変わるだろう。風邪はだいぶよくなったみたいだ。RZ のチェーンを張り、オイルを足して簡単な整備を行なった。Aから1万円を借りて、午後2時ごろ出発した。途中までA車で追走してもらい,セブンイレブンの前で別れた。
さあ、これから新潟まで走らなけれ ば・・・。簡単な地図を書いてもらったので 前のように迷うことはないだろう。 明日の昼までに着ければいいのだから。ほとんど休みなく、まずは関越自動車道を目的に走った。都心に入るとややこしいので外をぐ るりと回って八王子にでた。
時速60kmくらいで順行していただろうか。ヘルメットの中はあいかわらずご機嫌なミュー ジックが流れている。車は混んでも、すいてもいない程度だった。夕方、まだまだ明るさは残っている頃, 前方に大きなバスが走っていた。何気なくバスの座席を見ると、若い女の子達が自分の方に注目しているみたいだ。恐らくどこかの学校の修学旅行か何かなのだろう。すると、その女の子達が手を振ってきた。始め硬派ぶって知らんぷりをしていたが、ちょっとばかり気になったので手を振ってみようかと思い直した。その時だった。何か後ろに気配を感じて振り返ってみると、数台のバイクがジグザグをしながらそのバスへと近付いてくるではないか。手を振っていた相手が自分でないことに気がついた。それらバイク軍団は俺を追い越してバスに急接近。一台が400ccの二人乗り、あとはみな原付だった。男達はそのバ スの女の子連に奇声を発したり、立ち上がっ てみたり、ジグザグをしたりしていた。女の子たちはキャアキャア喜んでいる。「まだまだガキだなあ、」なんて独りつぶやきながら見ていると、 400ccのバイクの後ろに乗っている男がいき なり立ち上がって両手を上げた。その時だっ た、オートバイは加速し始めた。思ったとお り、その男は一肩から固いアスファルトへと転落していった。
八王子で道に迷った後,2,3時間は一度トイレに寄っただけ,ずっと走り続けた。今から思えばもっといっぱい写 真を撮っておけばよかったと少しばかり後悔している。狭山を通り、やっとのこと川越に着いたのはもう日も暮れかかっていた。高速に入る前にスタンドでガソリンを入れた。エッソという北海道には見かけないスタンドだ。関越自動車道路は混んではいなかった。夜の高速は運転しても本当におもしろくない。まあ、高速道路自体、単車にしてみればおもしろくないと感じるのだが。
高崎に着いたのは8時を回っていたころだっ た。ここで地図を買って駅前でしばらく休む。これからが大変だ。峠を越えなければならない。(当時は関越自動車道はここまで,峠越えは下道)
真夜中の峠越え
また夜がやってきた。今、こうやって旅のことを思い出してみても,夜中にただひたすらアスファルトに引かれた白いラインを見つめて走り続けている風景しか思い当たらない。高崎を出て前橋、渋川とR17をひたすら北上す る。周囲の風景などとうてい想像もつかない。ただ薄暗く光ったネオンや街灯が目に映るだけだ。
峠を越える前に腹ごしらえでもしようかと国道沿いの茶店に単車を止めた。ここまで来てカレーライスとは味気もなかった が、ほかになにもなかったので(金もなかっ たが)まあ、それにした。どこにでもありそうな店だった。名前も覚えていない。
「もう二度と来ることはないのだろうか」そんなことを考えながら再びRZのイグニッションスイッチに手をかけた。快い2サイクルエキゾースト(自分だけが思っている?)が群馬の山並にこだまする。22時ころ、とうとう三国峠の入口にさしかかっ た。ドライブインで簡単なおみやげを買って、それから体が冷えないようにと持参してきた衣類一式をめいいっぱい着込み、静かに出発した。走っているのはほとんど長距離トラックばかりだった。二輪車などこの季節、この時間、この場所いるのは珍しい。三国峠を走る。昼間なら、かなり楽しめただろう。コーナーの要所要所にこの先◯◯RとRを表示しているのはありがたいことだった。寒さと疲れのためトラックの後ろにひっついて走る。途中,ベンダーショップ(自動販売機が置いてある無人の施設)で眠気ざましのコーヒー。日通の大型トラックがその 時、そのショップに止まった。運ちゃんが隆りてき て、洗面器でざぶざぶと顔を洗い始める。
「ひゃ〜、眠い眠い。オらあよォー、もう10時間も走りっぱなしよぉ。眠いぜェ。こうやって 顔を洗うと少しはもつンだ。」どうやら眠いのは俺一人じゃなさそうだ。峠を越えたあとまたしても睡魔が襲ってきた。24時間のベンダーショップを見つけるたびに、熱いコー ヒーを胃に流し込み少しでも眠気から遠ざけようと試みたが、やはり午前2時ともなると 運転している最中でもまぶたがふっついてし まう。とうとうこれが限界か!
国鉄上越本線と平行に走っている国道17号線で塩沢という駅にさしかかった。1時間ないし2時間の仮眠をとろうと決心した。
駅待合室
塩沢駅にたどり着いた。その駅がちいさな駅であると気がついたのは少しあとになってからのことだった。待合室は一人ずつ腰掛けるような椅子しか見当たらなかった。人は一人も発見することは不可能だった。
「一休みをするにはちょと淋しすぎるな」単車にまたがったまま,呆然としいる時だった。人気のない駅前広場に一台の乗用車が止まった。こんな夜中に何事なのだろう。乗っていた男二人はこちらに向かって歩いてきた。
再度その自動車全体をさっと見直すと、その車は白と黒に塗られていて、天井に赤い突起が,そう、何のことはないパトカーだったのである。
「こんなところで何をしとるんだ!」
「いえ、あの~駅でひと眠りしようかと思って・・・札幌から来たんです!」
「あー、ここの駅はだめだなあ。さっき終列車が出ていったから、この駅はもう閉めるんだ」
「すみませんが、どこか休むところはないでしょーか?」
「そうだな、隣の駅に行って寝ればいい。大きな駅だからずっとあいているよ。それから今日は祭日なので変な奴がウロチョロしているから十分、気をつけなさいよ。」
「はい。」
数分走っていくと、聞いたとおり「六日町」というけっこう大きな駅に着いた。駅に入って一眠りしようかとしたが、今度は人が大勢いて少し恥しい気分。またコーヒーが飲みたくなり,駅前をぶらぶらと歩き回った。暖かいコー ヒーはなくて,少し街中まで探し回ったら、あっという間に小一時間たってしまった。駅前に止めてあるRZの前でコーヒーをすすって、ぼうっとしていると向こうからなよなよっとした若い男が話しかけてきた。札幌から来たというとひどく感激したみたいで、いろいろと話しを聞かせてやった。(聞かせてやったというより、無理に聞かせたと いうか・・・・)
ようやく落ち着いて待合室のベンチで横になる。イヤホンから所ジョージのDJ。そのままうつらうつらしていた。数十分そんな状態だった。気がつくと待合室 のベンチがすべて人でうまっていた。といっても、こんな深夜、列車を待っている人達ではない。登山に来た人達がベンチで仮眠をしているのだろう。結局、オレと同じような人達なんだろうと変に納得して、また少し眠る。四時に再び出発する。少し体調が良くなったみたいだ。
また,ひたすらと走っていく。うっすらと東の空が明るくなり始めた。毎度のごとく,近くのベンダーショップに入ってカップヌードルで朝食。すぐそばにある信濃川のほとりで、朝を身体全体で感じとると,一晩じゅう走り抜いたという充実感でいっぱいになった。辛いことや苦しいことが数多くあったけれども、この朝焼けを見た途端にそれはすっかり消えて、この朝を見つけるために走り続けてきたのではないだろうか。しかし、長い時間そこにとどまることは許されない。家に帰りつくまでは、この旅は終わったとはいえないのだから・・・。もう一度アクセルを握った。
My First Soro Long Touring 5
〜旅の終わり〜
1980年9月22日(月曜日)
農道のツーリングライダーたち
早朝の国道17号線を80~100km/hでクルージング。天気も快晴。長岡の街をすり抜け、三条あたりまで来た。まだ出航時刻まで時間があるので、日本海を一見しようと海岸に向かう。地図を見ながら走って行ったんだが、なぜかまた迷ってしまった。 数本のきれいな舗装道路が見えるところに出た。車はもろん人もいない静かな,そして奇麗な道だった。快調に飛ばしていくと、反対側からけた たましい爆音が聞こえてくる。いったい何事だろう?見るとおーとばいの行列だった。みんな皮つなぎでびしっときめていた。20台近くはいただろうか、こんな朝早く、とも思ったが今日は休日、これからツーリングにでも行くのだろう。
ピースサイン
数百メートル走ったところで一つの看板が目に入った。「農道につき、トラクター、農業専用車を優先とします」そうか,この道は農道なのか。
そのあと「夕暮れの丘」という所に行って記念写真を一枚。早朝なのに夕暮れとは。どこへ行くともなく目の前に果てしなく続く道をただ前進して行った。
有料道路?
海岸線を通って新潟へ出ようとして、有料道路らしき道に入った。朝の7時頃,とてもいい天気。空気がとてもおいしかった。その「有料道路」を走っていると料全所らしき建物が見えてきた。止まって財布を探していると、オジさんが言った。「お金は次のゲートで払ってください。」
再びゴキゲンな道を走る。左右に車体をバンクさせ、 潮の香りと波の音を感じながら,快調にRZを移動していく。そして次のゲートにさしか かった。「いくら〜」シールドをあげて聞いてみると,ゲートの中の人は黙って 次のゲートを指差していた。何かおかしいなと思いつつ、また走り始めた。そんなことを幾度となく繰り返しているうちに「次のゲートで払って」と言われて行ったところには誰もいなかった。有料道路ではなかったのか?
フェリーの出港までには時間はたっぷりあったので、途中、海水浴場の大きな砂浜で一休み、砂浜に寝そべる。とても気持ちのいいひとときだった。
海の家・・・らしきところで少々早い朝食をとった。ここの家の「あるじ」・・・らしき人も一緒にご飯を食べていた。だたっ広い座敷にふたりだけだった。その「あるじ」らしいちょっと強面の人が俺の座っているほうに近寄ってきた。
「漬物食べな!」
皿に一盛りもらった。・・・・ちょと怖かった。
白バイ隊
海の家を10時近くに出て、一路新潟の街へとハンドルを向けた。すれちがう車もほとんどなく淋しい道だった。右回りのコーナーを何気なしに抜けたときだった。単車が6、7台かたまって停まっている。 ボーソー族かともおもえたが、ジェットへルに顎紐しっかり、グローブにブーツ、乗っているのは750ccや550ccのノーマル、バンパーもついているし、・・・よく見ると・・・そう、すべてのバイクが白かった。 なんと白バイが道路で集会!じゃない,お話し(打ち合わせ?)をしているみたいだった。何台かがアクセルターンをやってキャッ ,キャッと楽しんでいるようにも見えた。ソーっと通りすぎてい行こうとすると、白バイ隊員さんは黙って俺が通り過ぎて行くのをただじっと見守っていた。・・・・ただそれだけの話なんだよね・・・・
新潟の街
お昼前に新潟市街に入った。長かったツーリングもこれで9割方終わったことになる。あとはフェリーに乗って小博に帰るだけ。フェリー乗り場がわからないので、 駅前の観光案内に聞くと、親切に地図を渡してくれた。
乗船手続きを済まし,出港まで時間があるので街中をぶらぶらとおみやげなんぞ買ったりして時間をつぶした。12時30分の出航時間に近付いたので、フェリー乗り場に戻り,乗船の列に並んでいるとRZ350とCB400Forがみえた。これから北海道にツーリングに行くのだろう。 船に乗り,2等船室の広い「座敷」に一人。この時期は空いているな。ひとまず,トイレに行ってすっきりして戻ってくると、な、なんとその独占していた 「座敷」に他の客人がひとり,それもかわいい女 の子がちょこんと座っていた。
「やっ た。ラッキー!。最後の最後になっていい思い 出が・・・」
ルンルン気分で話しかける きっかけを考えていた。 ちょうどその時だった。乗船する時に見かけたRZ350の男が眼前に現れ,話しかけてきた。その350の兄さんはやはり北海道ツーリングのご様子。いろいろと北海道の案内をしてさしあげた。
その傍らではしっかりと女の子のほうをうかがって、できればこっちのはうへとひっぱってこようと企んでいた。すると女の子の連れがやってきて、寝台の席がとれたから移るようにと話しているではないか。
「いやっ。わたしここでいいの。」
「せっかく席とったんだから・・・早く。」
とうとうその女の子は連れられて行ってしまいました。
そのRZ350のお兄さんといろいろと話をしていると、もう一人登場してきた。
CB400の兄ちゃんでした。話を聞くとこの人はけっこう年配(当時の自分から比較してで、相対的なもの)髭も勇ましく「ザ・旅人」という威厳のある人だった。
「そうだ、 コーヒーでも飲むかい?今日は大いに語り合 おう!」
と、その髭の兄さんが洒落たコップを持ってきてくれた。彼は北海道に5、6回行ったことがあるそうで、北海道に住んでいる自分も知らないようなことまでも結構知っているんだな、これが・・・
三人でいろいろ話をしていると時間の過ぎるのは早いもので、もう外は暗くなり始めていた。俺と350の彼は同じように夜通し走ってきたので知らないあいだに深い眠りに陥ってしまっ た。
気が付くと、午後8時だった。350の彼はすでに起きていた。
「ここの食堂は何時までだい?」
「8時か8時半だと放送で言ってたけど。」
残金千円の入った財布を持って急いで食堂へと向かった。定食800円だったが、それに見合った味ではないように感じられた。食堂のほか、船内には売店もないので仕方がない。再び彼といろいろと話をしていたら、10時の消灯。寝ることにした。いよいよ明日は北海道だ。小樽だ。
小樽の風
北海道はこの日暑かった。祝津の水族館が見える。高島岬だ。
数日間離れただけなのに,なぜがとても懐かしく感じる。 荷物をまとめ、そろそろオートバイのところに行く時間になった。乗船したときは一番最初だったのが、下船のときは一番最後になっ た。
桟橋に降り立った。小樽の風が心地よい。 午前10時ころ船で一緒だったRZ350の人を連れて張碓のカムイコタンへ案内した。そのあと自宅に連れて行って、これから彼が行くという道順を教えてあげた。そして途中まで 一緒に走って別れた。これで長いようで短かったソロツーリングも無事、終止符を打った。友人のK氏の家に行っておみやげを渡して、その日はぐっすりと休んだ。(完)
160円ツーリング
〜カブの貧乏ツーリング
1977年5月1日日曜日
6歳になってすぐに原付の免許を取得し、中古のHONDAスーパーカブを手に入れることができた。そんな愛車カブの最初で最後のツーリングレポート。
5月の連休の一日、たしかよく晴れ渡った一日だった。
青空を見ていると無性にどこかに行きたくなる。
11時ごろ、いろいろと考えたすえ、片道7、80キロほどにある積丹海岸あたりに行くことにした。ガソリンは満タン。(といっても3リットル) ポケットには百円玉が一枚と60円。
トコトコと小樽の街をすり抜けると、眼下に真っ青な海が見えてきた。
なんて気持ちのいい風だろう!
気分がハイになったところで、すれちがう数台のスポーツバイクにピースサインをだしてみた。ところがピースサインは返ってこない・・・
あたりまえか、こんな「とっつぁんバイク」だもんな。
すると、今度は我が愛車と同型のとっつぁんバイクにふきやらわらびをごっそりと積んだ本物のとっつぁんの集団が前方に現れた。
俺は一瞬いやな予感がした。そのとっつぁんたちと擦れ違うとき、全員が俺に、ピースというよりオッス、という感じで手を上げていった。ちょっとショック。
積丹をぐるりと回って帰る途中、メロンパンを一つだけ買って、海岸で独り梅を眺めながら食べた。忘れられないうまさだった。
燃費50㎞のカブだが、往復150㎞強の道のりでは少々きつかった。自宅前10キロほどでとうとうガス欠になった。ポケットにはあいにくと100円玉一枚しかなかった。
「ひゃくえんぶんガソリンおくれ。」
するとスタンドの兄ちゃんは、おまけだと言って1リットルいれてくれた。
かくして何事も起こらず無事帰ってこられたのは少しばかり奇跡に近かった。何かあったらもう最後、工具もなければガソリンもない、
おまけにポケットの中には160円!
今から考えてみると、それはそれは恐ろしい貧乏ツーリングだった。